事案第十五号「観覧マナー」(1)
綾街一香は冷静な人間である。
と、思っていたはずだったのに、実際はどうなんだ。
朝日神社のお祭りの後から、すぐに秋休みに入ってしまった。
前後期制のユリギノ女学院では、十月の第一週に秋休みが設けられていて、休み明けにすぐ行われる芸術鑑賞会で、後期がスタートする。
定期試験の回数が少ない分、一度の失敗が命取りになりかねない。
だというのに。
文系科目は偏差値七十前後まであがったけど、理数系が振るわなくて。
全体順位も五位と、中間考査からひとつ下げてしまった。
百三十人の上位五パーセント、つまり七位には入ってなきゃいけないのに。
後期で巻き返さなきゃと思っても、どうしても、勉強が手につかない。
リビングでごろごろしながら、鴛鴦茶を飲みながら、思い出すのはどうしても、ゆずが香る甘い感触。
口唇に指で触れる。
何日経っても、白瀬先パイのやわらかさを、この粘膜が覚えている。
「~~!」
声にならない叫び。
身体の心から湧き上がる何か。
今すぐ叫びたい。
また、触れたい。
暴れる心。
発散したくて床を転げて、
ガンっ!「ンゴっ!」
頭打った!
じわりと溢れてこぼれる。
視界が滲む。
なんだったんだと顔を上げる。
倒れた椅子。
こいつめ……。
ぶつけようのない怒り。
どうしたって、どうしようもなくて。
「んもうっ!」
頭を抱えてうずくまるしかなかった。
綾街一香は、常に冷静な人間なのに。ううっ。
◆
いったん落ち着くために、夕食の材料を買い出しに行った。
自転車の前かごも、後ろの荷台……わたしが乗っていたチャイルドシートも駆使して、ぎっこぎっこと走る。
意外と、運動は考え事のストレスから解放されるのにはいいのかもしれない。
安かった道産鳥もも一キロも、七対三の割合の牛豚挽き肉一キロも、豚肩ロースしゃぶしゃぶ用一キロも、牛タン丸ごとも調理し甲斐があるってもの。
特に牛タンなんて色もよくて、美味しそうで、牛の舌。ぺろりと、舐められた感覚。白瀬先パイの照れといたずらっ子な顔と。
「~~!」
なんで思い出すのっ!
バカだなあ、わたしは!
がしゃこんがしゃこんと全力で自転車を漕いで、漕いで、家に到着。
荷物を冷蔵庫と冷凍庫に押し込んではまた出発。
香味野菜根菜を中心に買い込む!
今日はポトフ。
ランボー怒りのポトフと母さんが名付けたレシピ。
なにかイライラしたら作るのよと言っていたポトフ! 寒くなってきたし!
あったかくして、穏やかになるんだ。
心がほっこりしたら、連絡をくれない白瀬先パイをいっとき忘れて……また思い出した! わたしのバカっ! キスしたい!
大量の根菜をざっくりざっくり割って切って、大振りに切った鳥もも肉をぶち込んで、液体塩こうじ。コンソメの粉、ネギの青いところとニンニクショウガ。
あとは火にかけて煮るだけ。
大ざっぱに包丁を振るってもいいし材料もはからなくていい。死ぬほど疲れていたって、説明書を読めたら作れるんだ。
「ふう……」
ぐつぐつと泡立つ鍋を見下ろしていると、心が落ち着いてきた。
今のうちに、新学期の準備でもしよう。
ふとレシピにある大事なアクセントを忘れていた。
ゆずの皮。ストックなんてない。
「~~んもう。ここまで追いかけてこないでよ、白瀬先パイ……」
先パイの口唇を潤すリップの香りを思い出してしまって。
会いたいのに、離れがたいのに、連絡をくれない先パイを、どうにかしたくなってしまった。
今度会ったらどんな文句をつけてやろう。
せっかく連休を、貴女に会えなかったんですよ、かな……。
◇
秋期休暇。
前後の学期切り替えに当たって、学院側が準備を進める期間として、一週間のお休みをもらっている。
もちろんその間にも課題は出ているし、休み明けすぐの全国模試対策も進めなくちゃいけない。
そして、その最終日には芸術鑑賞会が予定される。
市内有数のお嬢様学校として淑女たる教養を身につけるため、催される。
今年度は、小規模なアンサンブルコンサート。
なんとかフィルが来るようなホールの、百人くらいが入れる小ホールでの開催。
抽選制だからとダメ元で申し込んだら、当たってしまった。
もともと一緒に行く友人が居るわけじゃないから、別にひとりで行ったっていいんだけど。
わたしとしては珍しく地下鉄に乗って、降りたことがない駅で降りて、市街地ど真ん中の巨大な公園の中を歩く。
小川に架かった橋。
黄色く色づき始めた木々。
軽鴨の羽ばたき。
それらを潜り抜けて、市民ホールは存在していた。
まばらな塊で、生成色のブレザーに小豆色のロングスカート姿が、ホールに吸い込まれていく。
ユリギノ女学院の生徒たちだと、遠目からでも一目で認識できる。
正装が求められる催しということで、少し奇抜で、けれどもかわいい制服のフルセット。
ただ。
今日みたいにちょっと日差しが暖かい日には、暑い。
だから空調の利いているであろうホールに早く行きたくて、自然と足早になっていく。
ようやく辿り着いたエントランス。
受付の長机に、見知った姿を見つけた。
わたしのことを無視しといて、しっかり仕事をしている。
「白瀬先パイ」
声をかけると、名簿に視線を落としていた銀縁眼鏡が、ぎょっとこちらを向いた。
「えっ。綾街!」
ぺらぺらと名簿が捲られ、一年生の普通科の欄で指が止まった。
「……申し込んでたの?」
わたしにキスした唇が、そんなことを言うものだから、なんだかおかしくなってきた。
先パイには連絡をしなかった後ろめたさとか、あれからはじめて顔を合わせる気恥ずかしさとかがないらしい。
こっちは、野暮ったい眼鏡越しに瞳を見つめるのだって一苦労だって言うのに。
「先パイだって、係をやるなんて聞いてないんですけど」
「まあ、委員会所属はこういうところの便利屋だから……」
「図書委員が?」
「人手が必要だからさ。放送局、応援団も来てるよ」
通り過ぎていった腕章付きの生徒。執行部とあるのは生徒会役員かな。
「選挙で選ばれたわけでもないのに、大変ですね」
「まあね」
黄色い蛍光ペンでわたしの名前を丁寧にライン引きして、白封筒を差し出す。
その流れが手早くて、白瀬先パイの手馴れ具合にはため息が出てしまう。
その要領のよさを、ちょっとでもわたしに向けてくれたっていいのに。
「暑いから、水分は摂っておくんだよ」
そんな気遣いを出来るんだったら。
なん、内心の毒づきに気付いたのか、少し困ったように眉尻を下げた。
「綾街」
「はいっ」
小さく名前を呼ばれて、胸が跳ねる。
でも。
「シラーセー!」
どこからともなく、長机の向こう先パイに突撃して、腕に絡みついた。
プラチナブロンドのロングヘアで、生成色のブレザーに小豆色のロングスカートで、ヘーゼルナッツみたいな瞳の美少女。
それは、
だれ?
真新しい制服に身を包んだその人は、早口の英語でぺらぺらぺらぺらと先パイに話し掛ける。
言葉の端々から、コンサートを楽しみにしていることが聞き取れる。
リスニングは得意ではないと思っていたけど、ネイティブさんのクセのある早口にわたしの言語能力じゃ追い付けない。
一方で白瀬先パイはぺらぺらぺらぺらとゆったりした口調で返していて、
「私は受付の仕事があります。あなたと一緒に観覧はできません。しかしながら仕事が終われば、同じコンサートを鑑賞するでしょう。家に帰ってから、感想を交換しませんか?」
と、伝えていた。
ふうん。
お家でお話しする相手なんだ。
「お邪魔してもよくないので、わたし、行きますね」
くるりと背を向ける。
プリーツが膨らんで、脚に絡まって、でも動き出したら止まらない。
「あ、綾街っ」
「シラーセー」
右足を左足が追い抜き、左足を右足が追い越し、そのデッドヒートが心拍数と体温を押し上げる。
あれだけ柔らかさを覚えていた口唇に、前歯が突き刺さって痛いよ……。
面白い、続きが気になる! と思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけると、大きな励みになります!




