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事案第十二号「客観性」(2)

 白瀬先パイは珍しく、本を読んでいる。

 図書委員なのにページを手繰る姿を見せてくれることはほとんどなくて、わたしの隣で黙っているときは、参考書だとか問題集、あるいは辞書を開いていることが多い。


 英文科の課題はなかなか難しいらしい。

「先パイは、卒業後の進路って、どう考えているんですか?」


 なんとなく、聞いてみた。

 すると、平成の真ん中くらいで流行っていた小説を机に置いて、わたしの椅子に「よっこらせ」お尻を乗せてきた。

 暑いのに。よくやるもんだ。


 わたしの模試の結果表を開くと、ふむとひとつ唸る。

「綾街は文系に進むの?」

「そこまで考えてません」

「英語なら教えてあげられるんだけどなあ」

「一年生の頃、偏差値ってどのくらいでした?」

「英語は七十二。他は六十ちょっとだよ。理系は綾街より良かったかも」


 なんてもったいない――っていうのは、他人の勝手なんだろうな。

「理系が低いから気にしてる? 帝大に行くんだったら、文系なら十分じゃない?」

「成績要件があるので、各科目で越えておきたいなとは思います」

「それもそっか」


 そっかー、と繰り返して、白瀬先パイは天井を仰ぐ。

「私は、親の稼業とかあるしねえ……まあ、英語が出来れば色々と道はあるでしょってくらいの気持ち。姉ちゃんみたいに医療大に進むのは違うかなと思ってるけど」

「英文科から医療大は、確かに違和感ありますね」

「そう。だから、経営系のグローバルなんちゃらとか、そういう学部を選ぶのかなって。帝大は厳しそうだし」


 レンズをくいと持ち上げて、先パイはわたしの顔を覗き込んでくる。

「一緒の大学に行く?」

「偏差値が違いますよ」

「でも、帝大以外なら、商科大か、私立じゃん?」

「学費のことを考えたら、公立なので……商科大も候補といえば、候補でしょうか」


 でも、なんとなくやりたいことと違うのかもしれない。

 それが何かわかってないんだけど。


「郷土史をやっていて、楽しかったから……そういう方向に進むとなると、商科大は違いますね」

「それもそっか。でもそれなら、英語だけじゃなくてドイツ語とかも必要なんじゃない?」

 当時の資料は、原文がドイツ語だったりする。お雇い外国人の出身国を考えると、英語一本槍は危険なのかもしれない。


「今すぐじゃなくても良さそうですけどね」

「そうだね。私がドイツ語を学ぶって手もあるし」


 ん?


「一緒に、ひとつの仕事をするんですか?」

「……変な話してるな、私」

 くしゃっと顔をゆがめた先パイは随分楽しそうで、ばつが悪そうで、かわいらしい。

「本当に、先パイってわたしのこと好きすぎなんだから」


「否定しないよ」

 舌を出したって、あざといなあとしか思わないけど。

 だけど、吐息に混じるゆずの香りがいつも近くにあるんだったら、それもいいなって思ってしまった。


「あ、でも」

 ふと不安がよぎる。

 さっきのレポートに関する福飯先生との会話――わたしは、どこまで先パイのことを知っているんだろう?


「ねえ、先パイ。念のため確認ですけど……先パイの名字って、秋の穂で、あきほ、ですよね」

 きょとん。というレベルではなかった。

 文字に起こすんだったら、きょと――ん、くらいの、長い長い長音記号の重なりが、頭の上に浮かんでいる。


「綾街、私の名前って、耳で聞いたことなかったっけ?」

 いや、そうなるよね。

 わたしが間違ってるの前提の質問だよね。


「……わたしは、先パイが皆さんに、しらせと呼ばれている姿以外を見たことがなくて」

 だから、初対面からしらせ先パイって、呼んじゃってたんだから。

 漢字を知って、白瀬っていうんだーと。

 白瀬と、秋穂の並びを見て、白瀬秋穂だと、勘違いしたくらいなんだから。


「先パイ、はっきり言いますけど、四月に出会って、もう五ヶ月経ちますけどね。先パイが自己紹介しているところ、見たことありませんよ」

 ええい、ままよと。

 名乗らない先パイが悪いんだという論調で責めてやるんだ。


「あははっ! そういうこともあるねえ。ごめんごめん」

 けらけらとひとしきり笑ってから、先パイは眼鏡を外して目尻を拭った。

 そこまで面白い?


 同じ椅子にお尻を乗っける間柄なのに、

「私は、あいおしらせ。感じで書くと、秋の穂の白い波打ち際。英語で言うと――」


 溜めて、


「Please tell me a romance」

 やたらと流暢に、先パイは嘯いた。


 ……翻訳。

 教えてください。ロマンス。愛を。

「愛を、お知らせ、てな」

 がははと笑う先パイだけど、腑に落ちない。

「だったらlove newsあたりで十分ですよ。っていうか、Fallとか、riceとか、なんか、こう」


 しどろもどろになってしまう。

 だって、直訳したら、全然意味が違う。

「ロマンがないなあ、綾街は」

「そんな問題ですかっ?」

「っていうかそんな面白くない? 四月の自己紹介で一笑い取ったんだけどな」


 英文科のギャグセンスはよくわからない。

 だけど、自己紹介というワードで、ようやくそれが名前もじりだと気が付いた。

「そういうことですか……そういう言葉遊びだと、わたしなんてMs.missです」

「あやまち、だから? あははっ。安直~」


 小癪な……。

 歯噛みしていると、先パイはノートを取り出して何やら書き始める。

「綾織りの、街。これはシティか。だから……She is top designer,good smell」

「適当に訳してますね?」

「バレた? じゃあ」


 先パイはまた、ノートにペンを走らせる。

 You're a unique girl, who is the first one that made me feel cunning.


 関係代名詞だ。

「……先パイ。これ、どういう意味ですか?」

「ふふん。そろそろ期末考査なんだから、自力で訳しなよ。関係代名詞の単元が範囲だろう?」


 実に小癪な……!

「いいですよ。やってやろうじゃないですか」


 英文をにらむ。

 唯一。

 最初。

 ずるい。


「……この間のこと、根に持ってます?」

 先パイをにらむと、露骨に目を逸らした。ピンク掛かった大きいレンズから、目玉が飛び出していくくらいに。


 ため息。

「もしこれが、綾街一香の意訳だとしたら、要素が足りません」

「でも、Please tell me romanceで秋穂白瀬になるんだから」

「それもならないんだって。ふふっ」

 思わず笑いながら言ってしまった。


 先パイはなんだか満足そうで。

「笑った。勝ち」


 どうやらわたしは負けたらしい。


 いや、ずっと勝ててないんだから。先パイには。


 だからせめてもの抵抗で。

 先パイの背中におでこを乗っける。

「おわっ?」

「先パイ吸いです。においをもらいます」

「ちょ、今日汗臭いっ」

「良い匂いですよ?」


 場外乱闘でしか勝てないのが悔しいけど、だけど、しょうがない。

 先パイが悪いんだもん。


◆


 下校時刻が来て、図書委員は図書室の片付けがあって、一般生徒は先に下校準備をさせられる。

 だからいつもわたしは、玄関やお社で先パイを待つんだけど。


「怒られちゃいました」

 お社に手を合わせる。


「ね、ユリギノさん……蒔菜さん」

 このお社に納められているのは、かつて開拓の時代に風土病に倒れた若き女史。

 ポプラ並木を整備した、女のくせにという枕詞を撥ね除けた、いわば女傑。


 そんなひとがいたのなら、ユリギノ女学院は――前身の揺貴女学校を含めて、並木ポプラのごとくあれという校是は、必然的な一文になるんだろう。


 理事長先生がわたしのレポートにバツをつけた理由はなんとなくわかる。

 きっと理事長先生は、ユリギノさんの縁者なんだろう。

 それを知ってしまうと、神性が薄れるとかそういうことが、表向きの理由にもなるんだろうなと思う。


 名前というのは数奇なもので、ちょっとした読み違いで意味を変えるのもわかる。規模が小さいものなら、一香という字をいちかと読み間違われる人生であるわたしは、体験してないわけじゃない。


 きっと、先パイも。秋穂白瀬という名前も、苦労を重ねたことだろうとも。


 それなら。

「まだ、貴女の名前には何か隠れているんでしょうね、ユリギノさん」


 ざわ、と大きくポプラの葉音が鳴った。

 強い風が、プリーツスカートを膨らませる。


「ふふっ。その風はいつも吹かせますよね。どっちですか、ユリギノさん。肯定? 否定?」

 この問いに返事はない。

 だけど、どこかから見つめられているような視線は、感じる。


「安心してください。わたしは、品行方正に生きたいんです。女神様に見つめられているんですから」

 変なことはしません。

 できません。


 だけど。

「神野先輩はわたしに何をさせたいんでしょうね。ユリギノさんは、わかりますか?」


 また、強風。


「どっちですか、本当にもう……」

 暴れる髪を、膨らむスカートを押さえつけながら。

 きっとユリギノさんの返事の意味はわたしにはわからないから、今は捨て置こう。と思う。 


「お待たせ、待った?」

「いえ。大丈夫ですよ」

 片付けを終えた白瀬先パイと並んで歩き出す。


「いつもより遅いから、バスが来ちゃうかも」

「来てもしばらく待ってくれるから大丈夫だよ」

「そうですか?」


 他愛のない会話をしながら。


「そういえば、先パイはさっき、何を読んでいたんですか?」

「ミスまちこお勧めのライトノベルだよ」

「母さんの? え、なにそれ……」

「平成の真ん中頃に流行ったんだってさ。女子校の、姉妹制度みたいな話」

「へえ。うちにあるのかな」


 なるべく平穏に、生きたいな、なんて思う。


/◆◆◆


 鎮守の森。

 その小さなお社はユリギノ女学院の側にあり、時折神に縋りたい生徒が訪れる。


 親しみを込めてユリギノさんと呼ばれる女神――揺貴蒔菜比売は、ふうむと唸る。


「個人の……いや、個神のか。故人のかは知らんが、秘密を暴くつもりはあるのかのう」


 呆れたように言い返す少女。

 何か下らぬことを言ったのか、笑う少女

 彼女らの背を見送りながら、女神はふっと笑みを漏らす。


「睦まじいが、観察対象としては、そろそろ進展してもらいたいところじゃのう」


 その手にはペンとメモ帳。


  名前は最大の親愛であり、最大の防壁である。 


「ふむ。報告書を認めるとしようかの」


 小豆色のロングスカートを翻した女神は、風がざわめくポプラ並木に姿を消した。


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