事案第2号「熱」
事案第2号「熱」
東向きのリビングは、初夏の訪れを前にして薄暗い。
「ただいま。……そっか、ひとり、だ」
吐息に色が付いているなら、それはきっと青。
けれどもそれを目撃する家族も、クラスメートも、ここにはいない。
テレビをつけると、ドリフの再放送が流れる。
衛星チャンネル。父さんが夜中に見ていたのかな。
たらいの落ちる音。
笑い声。
ブレザーにブラシをかける音。
スカートのしわを伸ばして、ファブリーズを軽くかける。
小豆色のハイウェスト。深いプリーツのマキシ丈。
裾上げを上手には出来なかったけど、憧れていた制服。
しげしげ見てると、頬がゆるむ。
ブラウスを脱ぐ。洗濯籠に入れて、洗面台に向き直る。
鏡に写る姿は、頼りない。
下着もなんだか浮いている。据わりの悪さを直してから、さっくと髪をまとめてバレッタで留める。また下着が浮いた。んもうっ。
……テレビが、わたしを笑うみたいに歓声を上げた。
ジャージを着て、台所に立つ。
ちょっとよれた、中学時代の体育ジャージ。着心地が良い。
「何、食べようかな」
独り言を零しながら、ご飯の骨がつきっぱなしの茶碗を水に浸ける。
母さんが、すぐにうるかせってうるさかったのに、父さんは未だに出しっぱなしで出掛ける。
冷蔵庫チェック。
大根があった。
戸棚には、材料を入れるだけの麻婆の素。レンジで温めるパックご飯もある。一人分ならこれでいい。便利。
テレビの黄色い悲鳴。先パイの低めで優しい声とは大違い。
大根を切るのざくっとした手応えと、弾けるごま油の香り。
料理をお皿に盛る。
もそもそと食べる。
心地良い静かさに胸がざわつく。据わりが悪いんだ。
「はやく放課後にならないかな」
えっ。
自分のつぶやきに、驚いてしまった。
◇
明くる日。
いつもどおりの五月末。開け放った教室の窓からポプラの綿毛が舞い込んできた。
「それでね、二年の先輩が」
「声が大きいよ」
近くの席で噂話に興じるクラスメートを背に、次の授業の準備をしようとして――
めまいを感じた。
我慢できそうな、でも、放っておいたら悪化しそうな。
月に一回、あるかないかのめまいだ。
保健室に行こうかな。でも授業の欠席は避けたい。
考えているうちに、指先が冷えてきたのを感じる。
「……あのっ」
勇気を出して、噂話ふたり組に声をかけた。
「綾街さん、どうしたの?」
「顔色よくないね」
声を掛けられたことに驚いたのか、目を丸くする、ええと、宇和さん。それと、笹芽さん。
「ほ、保健室に行ってくるから、先生に伝えていただけますか……?」
言った。
声が大きい方――宇和さんが二つ返事で「いいよ!」と言ってくれた。
笹芽さんも心配そうに立ち上がってくれた。
「ありがとうございます……行ってきますね」
お礼もそこそこに教室を飛び出した。
……緊張した!
クラスメート話しかけるだけでも、胸がドキドキする。
頭がふわふわする。なるべく壁伝いに歩きながら、保健室に向かう。
すれ違う生徒。逆流するわたしを、避けていく。
その中から、
「あら。一年生、教室は逆よ?」
吹き抜ける風のような、涼やかな声が耳にすっと入ってきた。
背が高い人だった。
長い前髪に、見覚えがある。
「綾街一香さん、だね?」
「貴女は……図書室にいる先輩……?」
「そうよ。神野マキナ。よろしくね」
自己紹介をしあう場面じゃないのに、にこりと微笑む神野先輩に、ペースを持って行かれた。
「顔が青いわね。ひょっとして、保健室に行こうとしていたのかしら」
「はい。少し、気分が優れなくて」
「そういうときは、休むのがいいわね。特待生だからとて、無理は禁物だもの。付き添いはいるかしら?」
純粋な善意なんだろうけど、わたしは甘える気持ちにはならない。
だから、首を横に振った。
「すぐ、そこですから」
「無理はしないでね」
神野先輩は、合掌するみたいに手を合わせて、にまりと笑った。
「貴女が保健室に行ったこと、伝えておくから」
誰にと問う前に、チャイムが鳴った。
神野先輩は踵を返して、教室棟に向かっていく。
小豆色のスカートを翻して。
◇
保健の先生にめまいがすることを伝えると、一時間くらい休んでいきなさいとベッドに案内された。
しわにならないようにブレザーを脱いで、スカートも畳んで、漂白剤が香るシーツに潜り込む。
「ご家族に連絡はする?」
「いえ。父は忙しいので、心配かけたくないです」
「じゃあ、お母さんは?」
「母は……遠くにいるので」
先生は何やらメモする手を止めて、ふむ、と唸った。
「綾街さん、だっけ。普通科の」
「はい。特進クラスです」
「……なるほどね。お母さんも忙しいわけだ」
先生の手元には、生徒の資料があるのかもしれない。
やだな。はずかしい。
「わかったわ。担任の先生には私から伝えておくから、しばらく休んでなさい」
カーテンを引く音。
サンダルがリノリウムを叩く規則的な音。
扉の開閉。
ほっと、吐息。
母がテレビにも出ている料理研究家というのは、あまり広まってほしくない。
秒針が空間を刻む。
窓の外からの歓声。どこかのクラスの体育かな。
吐息。
色があるならきっと、青。
なんて思ってる間に、瞼が重たくなってくる。
目を閉じる。
心地よい、新緑の風。
ポプラの綿毛が舞う風に包まれて――
――どれだけ時間が経ったのか。わからない。
一瞬だけ寝落ちたのか、しっかり眠っちゃったのか。
「はあ……おなかすいた」
昼休みまでどのくらい時間があるかな。
食欲があるということは、そこまでひどい不調じゃないはず。
身体をゆっくりと起こした。
と。
「無理して起きない方がいいよ」
心臓が跳ねる。
聞きなじみのある声が、カーテンの向こうから聞こえてきた。
「どうして、」
言いかけたところ、カーテンの隙間から、大人っぽい銀縁眼鏡が覗いてきた。
「しらせ先パイ」
「顔色、あんまり良くないねえ」
困ったように眉尻を下げた先パイ。
首から下も、カーテンの内側に入ってきた。
小豆色のジャージ上下。体育の時間中だったのかな。
「お見舞いに来てくれたんですか」
「うん。突き指って嘘ついて、抜けてきちゃった」
「不良ですね」
「綾街の体調ほど悪くはないんじゃない?」
笑み。
冗談を言う銀縁眼鏡が、きらりと光った気がする。
あれ、と思う。
銀縁眼鏡だ。
「先パイ、いつもと違う眼鏡なんですね」
「ん? ああ、授業中だからね」
「図書室で掛けてるのは?」
「あれは、そうね……チーク代わりだよ」
内緒だよと、先パイは甘く微笑んだ。
「カラーレンズだからね。おしゃれでしょ、あの眼鏡」
「その眼鏡も、素敵ですよ?」
黙り込んだ先パイは、何かをごまかすように私のおでこを小突いた。
そして、そのまま頬に触れてきて。
あったかい。
「身体が冷えてるんじゃない? ……って、綾街」
「はい」
「どうして、スカートがそこにあるの?」
先パイの視線の先。
さっき、ベッドに潜り込む前に脱いだスカートが、そこにあった。
「しわになるといけないので」
「……じゃあ、これをめくったら……?」
シーツの端を摘まむ先パイ。
だから、わたしは言う。
「えっち」
「~~! めくらないけどさ!」
先パイは目を逸らして、だけど、わたしの頬から手を離さないで。
「私以外の人が来たら、勘違いされちゃうぞ」
何を勘違いするんだろう、なんて思いながら。
先パイの手の温かさに、心地よさを感じた。
◇
先パイは授業に戻ってしまった。
それもそうだ。そうなんだけど、ちょっとだけ、寂しい。
いくらか具合が良くなったので、保険の先生にお礼を言って、ちゃんと制服を着て、教室に戻った。
帰るために、鞄を取りに戻った。
「綾街さんっ! 大丈夫?」
わたしを見つけた宇和さんが、なんだか大げさに心配しているみたいに声をかけてきた。
「顔色悪いね」
笹芽さんも、その後ろからささやくような声で。
ふたりとも、わたしに心配の視線を向けてくれているように思える。
あまり離したことのないクラスメートだけど。
いつもわたしを見て、なんだかひそひそとしているふたりだけど。
「ありがとう。でも、今日は帰ります」
「そうなの? おうち、どこ?」
「北藍駅です」
「ほくらん……? 聞いたことない……」
それもそうだと思う。
バスに揺られて二十分。そこからJRで五駅。遠いとは思ってなかったけど、同じ中学から通ってるひとは、いない。
「気をつけて」
笹芽さんの言葉を追いかけるように、宇和さんも
「お大事にね!」
見送ってくれる。
鞄を掴んで、廊下を歩く。
と。
階段のところで、しらせ先パイに出くわした。
今度はちゃんと制服を着て、壁にもたれて腕組みをしていて。
まるでわたしを待っていたみたいに。
「帰るの?」
「はい」
「付き添おうか?」
「ダメですよ。まだまだ授業はあります」
それもそうかと、赤み掛かったレンズの奥が細くなる。
「あ、おしゃれ眼鏡」
「かわいいでしょ?」
「はい。かわいいです」
先パイの頬が紅い。
それはレンズの色が原因じゃないように見えた。
「どうやって帰るの? 駅から、歩いて結構あるんでしょ?」
「そうですね。十五分くらいかかるから、タクシーでも捕まえます」
「送っていくよ。うちの姉ちゃんが今日は休講のはずだから。どうせ家でだらだらしてるから」
「だから、だめですって」
心配そうな先パイの手をとる。
やっぱり、ほかほかの指先。
心地よさがある。
「ご心配をおかけしないようにしますから。帰ったら、メッセージ送りますね」
「……そう? じゃあ、気をつけて」
「はい。先パイは真面目に授業を受けてくださいね?」
正面玄関を抜けて、ポプラ並木の半ば。
ユリギノさんのお社がある。
お社に向けて一礼。
手も合わせる。
「今日はサボりではありません。体調不良です。わたしにかこつけてサボろうとした先パイを押しとどめたので、徳を積んだと思います。でも――早退するのは悪いことでしょうか。品行方正に過ごせてないでしょうか」
一息。
「体調を整えて、明日からまたがんばりますので、見守っていてください」
もう一礼。
踵を返して、帰り道。
少しふらつくのを我慢して、まだ日の高い道のりを、歩く。
ちょっとだけ、頬と指先が、熱い気がした。
/◆◆◆
鎮守の森。
その小さなお社はユリギノ女学院の側にあり、時折神に縋りたい生徒が訪れる。
親しみを込めてユリギノさんと呼ばれる女神は、ふうむと唸る。
「やり過ぎたようじゃな」
寂しげに、ひとり歩く少女。
生徒玄関から心配そうに見送る少女。
「もっと自我を押し付けて良いと思うのだが……奥ゆかしいのう」
吐息混じりに、ふたりの少女を見比べて、その手にはペンとメモ帳。
伝う熱は、伝え合う。
「ふむ。報告書を認めるとしようかの」
小豆色のロングスカートを翻した女神は、授業に戻っていく学院生たちの間に溶けていった。
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