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事案第十号「カンニング」(2)

 しわしわ、しゃわしゃわと騒々しいセミの鳴き声は、ぎいいいいじわじわじわと音色を変えた。


 二重窓を貫通してくるセミの鳴き声は、すぐ側の防風林から鳴るもので、ぽやんと歪んだティンパニの音がリズムを刻んでいる。地方大会で銀賞にもならないだろう合奏だ。


「綾街、今日は何を読んでるんだい?」

 気もそぞろで開いていた模試対策のテキストは、先パイの声がしたから、机の上に静かに置いた。

「お久しぶりですね」


 わたしが本の話をしなかったからか、先パイはピンク掛かったレンズの奥を、いぶかしげに細めた。

「ああ、そうだね。あれから体調は大丈夫?」

「ご心配おかけしました。お盆には盆踊りの出店で、しっかりと食べられました」

「それはよかった」


 ほっとした顔で、そのままわたしと横並びに座る。

 ふわりと香る、シトラス。

 ほとんど毎日、借りっぱなしのカーディガンでくすぐられたその匂いの新鮮さ。


 先パイは大学ノートを一冊、机の上で開く。

 盗み見た誌面は、小さな字で、びっしりとアルファベットが並んでいた。

「ちょっとここで課題させて」

 英語の課題らしい。読み取れた範囲ではインディゴとあるから、きっと藍染めのレポートなんだろう。


「二年生も模試が近いですよね?」

「でも先に、夏休みの宿題やらないとね」

「どこでやったっていいですけど、利用者さんが来るかもしれないことを考えたら、カウンターの中でやったほうがいいのではないですか?」

「だってそれだと、綾街が遠い。それに、」


 一息。

「綾街の方が詳しいでしょ? 藍染めのこと」

「そうでしょうか。先パイ、一生懸命に調べてたじゃないですか」

「あんなの、かっこいい先パイぶるためのポーズだよ」


 そんな謙遜を真に受けるわたしではない。

「そんなことしなくたってかっこいいのに?」


 ん?

「あ、いまのなしで」

「ノーカウントはもう無効だよ」

 ニヒルに笑う先パイ。


 まさかそんな台詞が、先パイから出てくるなんて。

「……意識してるんですねえ」

「ん? ……ん、んんっ。まあね」

「じゃあもう、ノーカウントにしとくの、やめます?」


 先パイの口唇を見つめる。

 いつもの、ゆずの香りがするリップを塗ってる。ほのかに爽やかな香りがするからわかる。

「……綾街は、色つきの付けてるんだね」


「あれ。いけないんでしたっけ」

 すっかり忘れていた。

「メイク扱いされるんじゃないかな」

「でも、朝、検査でひっかかりませんでした」

「綾街だからスルーされたのかもねえ」


 そんなふうに、なんともないことのように言いながら、先パイは必死に消しゴムをかけていく。今まで書いていたものを一気に消しているらしい。

「どうしたんですか、先パイ」

「んー。間違っちゃった」

「先パイでも盛大にあやまちを積み上げること、あるんですねえ」


 ぴたりと手を止めて、レンズの奥からにらむみたいにこっちを見てきた。

 その視線は、目を見るというよりはちょっと下に下がっていて。


 はあ。

 と、深く、ゆずの香りの吐息をした。

「過ちを重ねてばかりだよ」

「そつなく何でもこなしてそうなのに、意外です」


 ずっと話をしていると、先パイの香りに侵されそうになる。

 だから、姿勢を正して、問題集に向き合う。

 わたしが勉強の姿勢になったからか、横目で盗み見た先パイは課題のノートを睨んでいる。


 小さく動く口唇は、英文っぽい調べ。

 声に出して考えるタイプなのかな。


「ん? そっか」

 割と大きなひとりごとも出た。かわいいな。

 真剣なひとの邪魔をしちゃいけない。わたしも模試対策を……


 ……していたらあっと言う間に二時間が過ぎていた。

 ん、と伸びをひとつ。すると、真横からくすりと笑み。

「どうしました?」

 伸びのまま聞く。と、先パイは「ごめんね」と謝ってきた。


「悪い癖になってる自分がおかしくて」

「何がですか」

「怒らない?」

「はい」

「綾街の半袖の中を覗くのが、目で追っちゃう」


 咄嗟。

 後退って、ぎゅっと身体を抱いてしまった。


 隠すようなことじゃないのに。

 熱中症気味のわたしは、背中全部を見られたのに。


 どうして、袖の中だけで恥ずかしいんだ。

 なんだか顔が熱いなあ!


「え、えっちです」

 どもってしまった。

 前ならサラッと言えたのに。本当にどうしちゃったんだろう。


「もう。わたしをからかってばかりで。課題は終わったんですか?」

「もう提出はしても大丈夫なくらいになってるよ。綾街のおかげで」

「だったらすぐに提出してきてください」

 少し頭を冷やしたかったけれど、先パイはわたしの思いを否定した。


「綾街」

「な、なんですか」

「そこ間違ってない?」

 先パイの指が、ノートの一節を指した。


 "She is a short, thin, white-haired old woman with an ape-like appearance, wearing a kimono of clashing colors."


「綾街の訳し方だと間違いじゃないけど、ちょっと意図から外れる。単元は関係代名詞でしょ? そこは習った文法に当てはめたらいいんだよ」

「あ、そうか」


 急にまじめなトーンで解説し始めた先パイ。

 さすがの英文科だ。


 わたしのシャープペンを手に取り、さらさらとノートに綴っていく。

 "She is a short, thin, white-haired, monkey-like old woman who is wearing a kimono of contrasting colors."


「なるほど。ちょっと適当になっちゃっていたの、白瀬先パイにはお見通しですか。よく見てくれてますね」

「まあ、そうだね。英文科だから」

 先パイの顔を見ると、ピンク掛かったレンズの奥がはにかんだように細くなっていた。


 直視できない。

 だから、誤魔化すように文字を追って、自分の手で訳例を書き直した。


「綾街だって特進コースじゃん」

「英語は苦手なんです。次の定期考査で九割以上とらないと」

「中間は学科順位、何位だった?」

「英語は六位です」

「あ、ひょっとして」

 先パイの声が、トーンを抑えたものになる。


「立ち入ったこと聞くけど、特待?」


 上位五パーセントを維持する必要がある。

 百三十人の普通科で、六位は、ちょっと危ない。

 自分の学科じゃないのに詳しいのは、どうしてだろう?


「前回は振るわなかったので、期末は頑張らないといけないんです。模試だって」

「あんまり気負わないの」

 先パイが、優しく背中を叩いてくれる。ちょっと汗ばんでいるのがバレちゃう。


「えっち」

 咄嗟に出たひとこと。

 先パイは目を丸くして、

「今更じゃん」

「今になったから、ですよ」


 吐息。

「夏休みの間に、あまり会えなかったから」


 ちらりと。

 そっと盗み見るように窺うと、先パイは両手で顔を覆っていた。

「ちゃんと見てください」

「何を」

「……わたしを」


 先パイの腕を取って、わたしを視界に入れさせる。

 大胆なことをしている。

 顔が熱い。

 でも。


「ノーカウントのやり直しはしないの? 白瀬先パイ」


「you're a cunnning girl」


 妙に発音の良いその文章は、先パイの言葉だから聞き取れた。


 いいですよ。

 ずるくたって……。



 ぎいいじわじわわ、という蝉の声だかよくわからない音が、ポプラ並木から大合唱として続いている。

 風も、少し冷たい。

 八月も終わりに近づき、足下に落ちる影が長くなり始めた。


 ユリギノさんのお社は、朝の喧騒とは違って、晩夏の気配で騒々しい。


「品行方正な生徒が、思ったより少なかったですね」

 手を合わせ、自分のことを棚に上げてみる。

 うっかりアウト判定されかねない色味のリップクリームはしばらく封印だ。

 たまたま見逃されたのか、普段の行いのおかげなのか、先パイのチェック以外に引っかからなかったけど。


 品行方正に生きなくては。

「アウトでしょうか? もしそうなら、朝からバチを与え続けているであろうところを申し訳ないですけど、品行方正とは言えないわたしも罰が必要ですよね」

 自罰するのは、加減がわからなくて怖い。


 足音が聞こえた。

 帰り支度を終えた白瀬先パイだ。

 少し伸びてきたウルフヘアを風に遊ばせながら、早足で向かってくる。


「お待たせ」

「大丈夫です。急がなくて大丈夫ですよ。ユリギノさんにご報告してましたから」

「何を?」

「夏休み中、先パイにいっぱいお世話になったことをです。……あっ」


 大変なことを忘れていた。

 慌てて鞄の中をまさぐる。

 小腹が空いたときのためのアーモンド。空のタッパー。教科書。ペンケース。つげのブラシ。先パイに借りている水色のカーディガン。

 そして。


 取り出すのは白い紙袋。

 寒雁駅の百貨店の包みだ。


「渡しそびれてましたけど、お誕生日プレゼントです」

 え、と、先パイは素っ頓狂な声を上げた。

「貰ってなかったっけ」

「はい。知ったのは当日だったし、うちに来てもらうときに渡そうって思ってたけど、先パイは帰っちゃったし」

 それはわたしが体調を崩したのが悪いんだけど。


「ああ、別に良いのに。誕生日当日にデートしてくれて、うちの家族とケーキ食べてくれたじゃん」

「あれは……正直なところ、緊張しすぎててよく覚えてないし。そもそもそれが誕生日祝いっていう意識もなかったです」


 だから、真心っていうものを込めるなら、こうして形にしたくなった。そういう乙女心とか機微とかを酌んでほしい。

 同じ乙女として。……というのは気恥ずかしいから黙っておく。

「そんなわけで、遅くなっちゃいましたけど、受け取ってください」

「ありがとう。なんだろう」


 渡したのは、わたしと同じブランドのヘアミスト。

 ショートカットの先パイなら寝癖ケアにも使えるし、先パイを構成するシトラスやベルガモットの邪魔をしない、先パイらしい香りを選んだ。


 いつもわたしを香りで翻弄するんだから、先パイだってこれで翻弄されてほしい。


「わっ」

 早速袋を開けて、それがスプレーだと分かるや否や、しゅっと一吹き手首に掛ける。

 レモンの奥に緑茶のようなさわやかな香りが、わたしまで届いてくる。その香りを、す、と嗅いだ先パイは、レンズの奥で瞼をおろした。


「どこかで嗅いだ感じ。綾街の髪かな」

「わかりますか? そちらは先パイ合わせてフレーバーティの香りなんですけど、わたしのは甘いお花系なんです。だけど、ベースがどちらも石鹸系らしくて」


 一息。

 口唇が震えるのを堪える。


「お揃い感があるかなって思ったんです」

 溜めて放った一撃は、先パイには会心の当たりとなったようで、わたしの妙に早い鼓動も茹だったように熱い顔面も、無駄じゃなかった。


「順番は変かもですけど、同じものを身に付ける仲間として、です」

 揃いの下着に揃いの髪のにおいなんて、白瀬先パイを自分に同一化したいみたいだ。

 どうやら、わたしは先パイに執着し始めているようだと、気付いちゃった。


 先パイは照れているのか、無言だ。

 だから。手を取って、見上げる。

「しらせ先パイ」

 甘えるみたいな声が出たっきり。

「これからも仲良くしてください。わたしには、白瀬先パイしかいませんから」


「……ずるい女だなあ。綾街は」

 空いた手でぽりぽりと頭をかいて。

 そして、深い吐息。


 ピンク掛かったレンズの奥が、不敵な笑みを浮かべた。

「私にとってだって特別なのに。これ以上を求めるの?」

 低い声。

 そっと、耳朶に吐息がかかる距離まで、先パイの顔。

「欲張りさんだね、いつかは」


 重く、甘い声が、脳みそにズシンと響いた。

 リップのゆずと、シトラスミントが、グラグラ揺らしにかかってくる。


 薬缶が沸騰したような音が、わたしの脳天から聞こえてる気がする。


「あはっ。照れちゃって、かわいいんだ」

 そうやって笑う先パイだって、真っ赤なのに。


 レンズや西日のせいだなんていわせない。

 わたしの反応を見て、からかうなんて!


/◆◆◆


 鎮守の森。

 その小さなお社はユリギノ女学院の側にあり、時折神に縋りたい生徒が訪れる。


 ……のだが。


 そのお社の前で互いに距離を詰め、攻守を激しく交代しあっていたふたりが、残していったかしましさ。


「お揃いの……におい、じゃと?」


 何を交換したのか。

 そもそも夏休みの間に何が起きていたのか。

 ポプラもなく、隣の神社の眷族の力も借りられなかったときに、何があったのか!


「余の手には余るというのか……?」


 その手にはペンとメモ帳。


   匂いをすりつけあうのは、所有物としての証。


「報告書を認めるにしたってどう書けばいいのじゃ!」


 小豆色のロングスカートを翻した女神は頭を抱える。

 ポプラ並木を抜ける風が、ひとつ縛りにした女神の髪を揺らしていった。


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