事案第九号「レーティング」(4)
さて。わたしが肌を拭い、念のため日焼け止めを塗ってから、汗でぐっしょり濡れた下着を脱いで鞄に詰め込んだ後。
じっとりとした感触の黒いワンピースが、直接肌に、胸に、当たるのを我慢して、化粧室を出た。
あれだけ気に入っていた赤いステッチも、今のわたしは、この一枚を剥げば一糸すら纏わないわけで。
視線を誘導するこのステッチが、なんとも憎い。
浮き出てやしないだろうなと、そればかりが気になる。生地が擦れる刺激も気になる。先パイの視線が気になる。
「大丈夫そう?」
「はい……頭も身体も、冷えました」
「そう。よかった」
いつも鬱陶しいくらいくっついてくるはずの先パイが、やけにクールだった。
相変わらず強い冷房。
ごうと鳴る送風口をにらみつけながら、ふと、気が付いたことがある。
前回も、わたしは下着を着けずに先パイと会っていた。
そこで、水色のカーディガンを借りたんだった。
「あの、先パイ。ひとつお礼と、謝らなきゃいけないことがあるんです」
「なに? どうした?」
「カーディガンをお返しするために、持ってきました」
ああ、と、先パイは目を丸くした。
「またしばらく、返してくれないと思ってたよ」
「はい。今回はちゃんと、お返ししようと思って持ってきたんです。けど……ごめんなさいついでにお願いなんですけど」
「なんだい、改まって」
「あの、胸元の、浮きが気になるので……このまま貸してください」
「……そうだね。そうしなよ」
しょうがないなと、先パイは笑った。
でも、ピンク色のレンズの向こうは一瞬だけ、穴が空くほどの眼力でわたしを見ていたのを、わたしも見逃さない。
くっそう。
絶対にあとでからかってやるんだから。
コミュニティセンターでは小規模ながらも、地域の伝統的な資料が展示されている。
白瀬先パイはそれらを一つひとつ確認して、ふむふむ唸りながらメモを取っていく。
「英訳があるのがありがたいね」
「ご自分で訳せばいいんじゃないですか?」
「面倒だけど、やってやれないことはないよ。でも、意外と慣用句的な表現があったりさ、固有名詞みたいなものの訳し方も、間違えられないからね」
「そういうものなんですね」
英文科は、なかなか厳しいようだ。
展示のプレートを書き写しながらくるくると回っているのを、わたしはベンチに座りながら眺めている。
先パイが、わたしの体調を気遣って、座らせてくれている。
すっかりと汗は引いて、身体の中心から感じる焼けるような熱はなくなった。
だけど、心配してくれている先パイに、これ以上気を揉ませないようにと、大人しく従っている。
先パイの姿を見ているのもいいけれども、本を読むのもいいかな、なんて。
展示室には図書室が隣接していて、わたしだけでそっちに行っても良いんだけど。
どう見たって不真面目な眼鏡で、真剣なまなざしを向けているそのギャップから、目を逸らすのがもったいなく感じる。
「いやあ、綾街が連れてきてくれてよかったわ。朝日の図書館じゃ、本しかないもんね」
「ふふっ。お役に立てました?」
「うん、助かるよ。あとはまとめるだけで完成しそうだよ」
「あら。それじゃあ、わたしの中学生のころの自由研究は、いらないですか? 自分で言うのもなんですけど、よくまとまってますよ」
「持ってきてるの?」
「家にあります」
先パイは「へえ」とひとつ、瞳を細めて声を漏らした。
「誘ってるの?」
「ええ。そうですよ」
「……そうなの」
「そうです。先パイが来て、びっくりするくらいに、綺麗にしたんですから」
「どこを?」
意地悪な目線。
だから、乗っかる。
「言わせるんですか?」
しなを作って、流し目をする。
と、先パイは弾けるように笑い声を上げた。
「あははっ。綾街、ふふ……似合わないよ」
「まあ、失礼な先パイ」
「ちょ、笑わせないでよ。あはははっ」
こちらは真面目だと言うのにひどい先パイだ。
「でも。残念だ、綾街。そろそろ帰ることにするよ」
えっ。
「どうして」
てっきり、家まで来るものだと思っていた。
そのために、夏の暑い日に大がかりなお掃除だってしたのに。
「どうしてって、綾街が、体調を崩してそうだからだよ」
それは、どうしようもないくらいの正論だった。
「体調を整えて、また会おうよ。夏休み明けだって、私は図書室にいるんだから。もちろん教室まで来てくれたって良いけど」
まるで、年長者の余裕みたいな顔をして、先パイは言うんだ。
「じゃあ、しょうがないですね。本当は、わたしの課題、見てほしかったんですけど」
「それは電話でだってできるしね」
言外に、先パイは言ってるのかな。
夏休みに会うのはこれが最後だって。
外は燦々の陽光が照りつけているのに。
施設の冷房はギンギンに吹き付けているのに。
わたしは、悶々とした思いを抱きながら、
「じゃあ。先パイ、またね」
「うん。また連絡するよ」
どうして、こんなお別れの言葉を言わなきゃいけなかったんだろう。
わたしは何を、あやまってしまったんだろう……。
「白瀬先パイ」
口にしたその響きが震わせた感触を押しとどめるみたいに、ほとんど無意識で、わたしの指は、口唇に触れていた。
ふにゅっと柔らかい、リップクリームでちょっと湿りを残したその感触に触れて。
「ダメなのかな……」
何が、というは。
考えようとしたけど、苦しくなったから――考えるのをやめた。
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