事案第九号「レーティング」(3)
八月十二日。
お盆を前にして、ようやく郷土史の課題が終わった。
それ以外の課題だって順調で、想定の二割増しで片づいていってる。
夏休みの最後の一週間は、のんびりと羽を伸ばしながら本を読んで、模試対策をして、時間が合えば礼ちゃんや里奈ちゃんとも会いたい。
フロアワイパーを掛けながら、壁紙のシミを見つけたら消しゴムで擦って歩く。
お部屋の消臭剤も詰め替えたし、シンクもシリコンコーティングした。
真夏の大掃除だ。
エアコンのおかげで汗もかかずに、リビングは完了。
レンジフードは父さんがいるときにはずしてもらって、キッチンもオッケー。
この夏で一番綺麗。
まんぞく。
ふんすふんすと鼻息も荒くなるのもしょうがない。
さて。
お掃除が早く終わったから時間がある。
今日は先パイが、近くまで来てくれる日だ。
藍染めの資料を見にくるので、まずは地元のコミュニティセンターに行って、そのあとわたしの中学時代の自由研究を見るために、うちまで来る約束。
おうちは綺麗。
今日のために服も買った。
下着だって新調してみた……のは、単純に洗い替え用が必要だったから。登校日と同じ失敗は繰り返さない女。それがわたし。
少しだけ、髪に気合いを入れた。
毛先にオイルを馴染ませて、うなじでしっかりとゴム止め。
ふたつに分けて、髪束をくるりっと通す。量が多いから、二回やった。ボリュームが出る。
あとは隙間に押し込みながらピンで留めていく。
完成。
小学生の時に母さんにやってもらって、お姫様みたいと感動した、なんとかタック。
襟足が出て涼しいけど、気合いでも入れなきゃやってられないくらい面倒。アイロンで巻くよりダメージが少ないから、今日みたいな日はやるけど。
かわいいって言ってくれるかな。
もしアイロンで巻いたポニーテールが良かっただなんて言われたらどうしよう。もし笑われたらトリートメント代を請求してみよう。先パイなら笑ってくれるはず。
日焼け止めを出てるところ全部に塗って、リップクリームを塗って、潤いも十分。いつもより血色がよく見えるくらい。
なんだか、口唇がいつもより? ピンクでかわいいからって新しいのにしたから?
まさかくちべにと間違った?
パッケージを確認する。輝く薬用の文字。
…でもき、気のせいか。
夏の日差しのせいだ。きっと。
鏡見て、ふと不安に襲われた。
お姫様みたいな髪型に、買ったばかりの黒いワンピースは合うのだろうか。
この間のショートパンツだとカジュアルすぎるかな。同じ服ばかりの女に思われるかな。
え、どうしよう。正解がわからない。
こういう相談をしたい先パイを驚かせようとするのは、やめたほうがいいかな。
「ええい。ままよっ」
ちんちくりんでも、かわいいのを着たい! 先パイにかわいいって思われたいから。
着る。
鏡に映す。変に浮いたりしわが寄ったりしてない。
肩が露出し過ぎてるけど、インナーははみ出てない。
下着の肩紐も浮いて見えない。
……胸を反っても、浮いて見えるものはなにもない。
姿勢を正す。起伏も、パッド分の厚みしかない。
大丈夫。
全身黒だけど、胸元に赤いステッチが入ってる。これがアクセントになっていて、かわいいんだ。
ひざ下丈の裾。ちょっと長いから、先パイが変だって言ったら裾上げしよう。かわいいと思うけど。
何か違う、とは思わない。
きっと先パイが言ってたとおり、サイズが合うから。
ありがとう先パイ。いつものファッションセンターでも、自分に合う大人っぽい服を選べました。150サイズ……ジュニア用ですけど。
さあ、迎撃用意はできた。
ここまで用意すれば、街亭の天才軍師だって舌を巻くはず。
「いざ、出陣」
声に出し、家を出る。
昨夜読みふけった奇書に中てられたわたしは、気合いも十分だ。
◆
藍路駅はまだ高架化もされていなくて、駅舎も小さいけれど、駅員さんが常駐する駅。
先パイの家からは朝日駅まで地下鉄に乗って、JRに乗り換えてから三駅。わたしの最寄りである北藍駅からも二駅。
かつて父さんの小学生時代は長閑な玉葱畑が広がっていて、冬には強烈な地吹雪に見舞われたことから、寒雁三大ブリザードのひとつに数えられるほど。
けれど開発が進んだおかげで、住宅街となった元農地の真ん中に、コミュニティセンターが鎮座してる。
今日の目的地は、このコミュニティセンター。
我が家からJRに乗るよりも徒歩の時間が短くて済むからと、バス移動を選んだせいで、寄り道をしている気分。
ただ。
髪も、服も黒いから。
「あっついー」
口唇が、うだるような声を押しとどめなかった。
街路樹の木陰を渡ろうにも日が高くて、影が小さい。
熱されたタイル張りの歩道は、伝統芸能のモザイクになっていて、光をよく反射する明るい色。
「両面グリルみたい……」
服装に失敗したかもしれない。
額に浮かぶ汗。
背中も、じっとりしてる。
塩なんて吹いちゃったら、恥ずかしいな。
いっそ、先パイにここまで来てもらおうか。
そうだそれがいい。
すぐさま電話を取り出す。
メッセージが来ていた。
『駅を出たら小学校みたいなところに来ちゃったんだけど、集合って駅だっけ?』
駅待ち合わせですよ先パイ。
どうして明後日の方向にいるんですか……。
『お迎えに行くので、木陰でじっとしていてください。小学校の横に、少年野球場のある公園がありますから』
迎撃作戦は遊撃戦に変わった。
さあ、炎天下の行進だ……いくぞー……。
緩い気合いの中、藍路駅を通り過ぎて、放水路を渡る。
そこから、歩くこと五分。小学校のグラウンドを囲うフェンスが見えた。
その手前に、小学校の敷地と同じくらいに広い公園がある。
木陰に、可憐な美少女見つけた。
麦わら帽子に、長袖シャツ、風に揺れるスカート。
帽子が違うだけで、書生風から美少女にモデルチェンジした先パイ。
そよ風に揺れる涼やかさ。
わたしに気付いて駆け寄る姿。
「ごめんね、綾街っ」
ちっとも悪びれない笑顔。
いつものシトラスの薫り。
「ずいぶん汗だくじゃん……こんな綾街、初めて見た」
汗だくのわたしにハンカチをあてがって、心配そうに眉尻を下げる。
「いやあ、探しましたよ……」
「涼しいところ行こう。顔も赤いし、熱中症になったら大変だ」
「ねっちゅうしょう」
そうね。
その原因の半分は先パイですけどねっ。
べつに、ベタな「ねえ、ちゅうしよ?」を思い出したことなんてありませんけど。
先パイのゆずリップの香りなんて嗅ぎなれてるし。
「あれ、綾街。今日は色付きのリップ? かわいいじゃん」
……なんで、そう、意識させるのかなあ!
這々の体でコミュニティセンターに逃げ込んだところで、強烈な冷房が襲いかかってくる。
市の施設だというのに、かくや夏のブリザードが襲ってきたのかと思うほど。
汗で湿ったワンピースが急激に冷える。
「濡らしたキッチンペーパーに包んだ缶ビールは、お風呂に入るくらいの時間でキンキンに冷えるそうですね」
「へえ。暑い日にはピッタリだ。そんなことを知ってるとは、さては」
先パイがスポーツドリンクを渡してくれる。ライフハックなど不要なくらいに冷えていて。一口を喉に流すだけでカラダの奥が冷える。
「美味しそうに飲むね。ちょっとちょうだい」
借ってくれた先パイがほっするなら明け渡すべきか。考える前に、わたしの手は空になっていた。
「空城の計……」
「んあ? なにそれ」
きっちりとふたを閉めて、返されるスポーツドリンク。
それは、空の杯に近しい、甘みのある毒に見えた。
「すみません、昨晩、小説を読みふけっていて」
「好きだねえ」
「ええマンガと違って味わい深くて」
先パイが何やら生温かな目で見てくる。
今日は、いつも図書室で掛けている、ピンク掛かったレンズの眼鏡だ。たしか、ウェリントンっていう形。
頬に紅を差したような色合いになる、先パイ曰くおしゃれ眼鏡。
一方のわたしは、きっと真っ赤な顔をしていて。
熱中症直前の暑さのせい。
リップクリームの色なんて、きっと関係ない。
身体の火照り。茹だったような頭の熱。きっと、熱中症の直前。
「ねえ、綾街。寒いんじゃないの?」
「えっ」
だから先パイが、眉尻を下げて問うてきたのに、驚いた。
「ちょっと顔色悪いよ。汗が乾いて冷えるからさ。ね、お化粧室行こ?」
「ど、どうしてですか」
「ほら。前にも言ったけど、私って汗っかきだからさ。汗対策グッズは山盛り持ち歩いてるんだ。だから、風邪をひいちゃう前に、世話を焼かせてよ」
先パイに手を引かれて、あれよという間にお手洗いに連れてこられた。
着替え用のステップのある個室に押し込められて……先パイまで、入って来て、とても狭い。
「あ、あの」
「ほら。背中向けて。ファスナー下ろしてあげる。ちょっと湿ってたら、自分でやりづらいから」
抵抗むなしく――抵抗する間もなく、かな。
わたしの、汗で湿った背中。
タンクトップで覆ったはずの中身は、きっと、透けて見えてる。
「どうして今日に限って、ワンピースにしちゃったんだろ……」
「嘆いたって仕方ない。ほら。袖を抜く」
おずおずと言うとおりにして、袖を抜くと「万歳して」と短い指示。
言われたとおりにすると、肌にはりつくタンクトップが、音を立てるみたいな勢いで、胸の上までまくり上げられた。
「ひぃっ」
恥ずかしい!
思わず悲鳴が上がっちゃった。
「ブラを買いに行ったときに照れなかったんだから、今も照れるでない!」
強く言う先パイは、その語気と同じくらい強く、タンクトップを引っ張る。おかげで、なんとかタックにしてボリュームのある頭を通り抜けて、締め付け感が解放感に変わった。
「ほら。まずタオルで拭くからね」
そう言って、やわらかな感触が背中に触れる。
暖かくて、柔らかい。
「次、シートで拭くね。冷感のだから、冷たいよ」
遠慮無い一撃に、「ひゃッ!」と鋭い声が上がってしまった。
首筋、背中、脇の下。肌が露出しているところは余すところなく。
「本当はブラの下もやってあげたいけど、ホックを外さないと伸びちゃうし」
なんてことを言うんだ、先パイは。
「……先パイなら、外してもいいですけど」
なんてことを言うんだ、わたしはッ!
「馬鹿なことを言うんじゃない。そこは自分でやんなさい」
……否定しないんだ。
「拭いた方がいいですか……?」
「汗が乾くと、乾燥しちゃうからね」
「替えの下着、ないです」
「そこはほら、今日は、私とふたりだから。その、ね?」
言い淀む先パイ。
肩越しに見ると、レンズの赤み以上に頬が赤らんでる。
「ほら。ささっとしなきゃ風邪ひいちゃうから。次、制汗剤掛けるよ」
しゃかしゃかとスプレーを振る音。
そして、冷気とシトラスミントの香気が、猛烈な吹雪みたいな勢いで背中や脇に振りまかれていく。
ひとしきりの暴風の後。
「先パイのにおいだ」
個室が、その香気に包まれて。
危うく、だらしなく笑うところだった。
「あの、先パイ、ありがとうございます……下着取って、また着ますから……一度、退出をお願いします。ちょっと、恥ずかしいです」
「あ、うん。そうだよね。えっと、外にいるから。この鞄の中身、好きに使って」
「ありがとうございます、お借りします……」
おかしい。
下着を買いに連れて行ってもらったのは、ほんの二ヶ月くらい前なのに。
恥ずかしくなかったはずなのに。
先パイに、今のわたしを見られるのは、すごく恥ずかしく感じた。
面白い、続きが気になる! と思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけると、大きな励みになります!




