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事案第九号「レーティング」(1)

 うだるような暑さは、インドアで過ごしているわたしには関係無い。


 カランと、汗をかいたグラスが音を立てた。

 混ざりきっていない黒と、白と、ベージュの液体。母直伝、お手軽鴛鴦茶。

 ペットボトルの紅茶と缶コーヒーをブレンドしたお茶に、フレッシュを垂らしてコクを出す。コクってなんだろうと思いながら緩く混ぜて、ストローを咥える。冷たい。


 七十ccずつという指定は基準で、好みで調整。

 本場の人が見たら怒りそうなレシピだ。

 甘くて美味しいけど、礼ちゃんや里奈ちゃん、他の中学時代の子たちにも理解をしてもらえなかった。


 門外不出、封印レシピその9なのだ。


 タンクトップにショートパンツだなんていう、だらけきった部屋着で、冷たいお茶を堪能する。しかもエアコンはフル稼働。


 贅沢な高校一年の、夏休み。

 そんなわたしが読むのは、週に一度学校に提出する、課題進捗報告だ。

 ユリギノ女学院では、必要を必要とする生徒以外は、夏期講習などもなく自宅で過ごせる。その代わりとして、メールで学校側に報告を提出する制度なんだとか。


 自主性を重んじるという方針なのだそうで、実際に、毎週三十人分のチェックをしなければいけない担任、副担任の先生は大変だと思う。

 大変にさせているわたし自身も、課題の多さに加えて報告書づくりもあるから、気軽に遊んでられない。


 ……余計なことを考えたくないから、その忙しさが救いなんだけど。


 金曜日のうちに送ったメールに、副担任の福飯先生から返信があったのはついさっき。月曜朝の返信という、教職員の労働環境を垣間見てしまった。


『郷土史のテーマが決まらないなら、図書室開放日に登校したらいいですよ』


 渡りに船とは、こういうことを言うのかもしれない。

 図書委員でもなければ知らない情報。

 こういうふうに、自分で情報をキャッチするというのも、学院側の教育なんだろうな。

「先パイは、教えてくれてないけど」


 薄まり始めたヘンテコなお茶を飲んで、ソファに沈み込む。

 夏休み、先パイの図書室当番はいつだったかな。


 会いたいな。


 ストローを咥える口唇の冷たさ。

 ノーカウントにした事故の熱さは忘れないと思っていたけれど、そんなものは、喉元すぎれば忘れてしまうんだ。


 会いたいな。


 クリーニングに出した制服、取りに行って大丈夫かな。

 引き取り表の日付を見て、開放日前に取りにいけることを確認して、余計なことを考えないように今日は手間を掛けた常備菜を作ろう!


――会いたいな。


 ええい、うるさいっ!

 先パイとはどんな顔したらいいかわかるまで会えないのっ!



 十日ぶりに登校したわたしは、お社の前に来ていた。

 ポプラ並木に遮られた木漏れ日と、弱ったぬるい風に誘われたように。

 確かに、バス停から正面玄関までの間にお社があるんだから、必ず通る場所にある。


 けれど、無意識に足を止めてしまったのは、ユリギノさんに呼ばれているから、というふうに思ってしまう。

「ご用でしょうか? っていうのも違いますね。……とりあえず、品行方正に生きてるつもりですって、ご報告します」


 手を合わせると、並木の枝がざわめいた。

「課題も計画より早く消化してるし、夜も十二時には寝てるし、父さんのご飯とお弁当とワイシャツのアイロンも欠かしていません。自分の洗濯は……今日はノーブラですけど、誰に会うでもないし」


 返事をするみたいに、スカートが舞った。

 薄手のタータンチェックが、大きく膨らむ。


「ダメですか? ちゃんとタンクトップ、着てますよ」

 締め付けがないのが快適だとか、そういうズボラさが原因じゃない。湿度が悪いんです。


「次は気をつけますから……でも、風紀規定は守ってますから」

 ユリギノさんへの言い訳を言い切って、逃げ出すみたいに足早に。

 正面玄関に滑り込んだ。


 夏休みの校内には、音がある。

 ごち、と刻まれる分針。

 ぶわんと間延びしたユーフォニアムの音色。

 笛の音のようなすきま風。

 そしてわたしの足音。

 しんという無音の音が、わたしという異物を迎え入れてくれる。


 階段を上り、玄関横の吹き抜けホールを見下ろしながら、職員室に向かう。

 そこには人の気配が多くあって、まばらに点灯する電灯が、その所在を示す。


「失礼します。福飯先生、いらっしゃいますか」

「はーい。お、綾街さんだ」

 福飯先生はいつものスーツから比べるとかなりラフな格好で、ご自身のデスクに向かっていた。


「夏休みにお疲れ様。きっちりと制服で来たのね」

「登校って、そういうものではないですか」

「部活で登校してくる子って、ジャージだったり、ループタイを付けずにボタンを開けていたり、なかなか自由でね。……指導のし甲斐があるのよ」


 わたしは指導のし甲斐がないらしい。

 ループタイの左右の長さだって合わせて、ブラウスもスカートのプリーツもアイロンを当ててきた。華美な装飾だってない。

 風紀を乱しそうなのは、下着くらい。見られないからオッケー。


「図書室なら空いてるみたいよ」

「ありがとうございます。本当なら、お休みですよね」

「教員に休みなんてないのよ。有休消化とか、リモートって手もあるけど。部活の顧問とかやってるとね。だから綾街さんひとりのために出勤しているわけじゃないから、恐縮しないで頂戴」


 そう言って微笑んでくれる。優しい先生だ。

「郷土史の課題でしょう? 難しい課題よねえ……先生もユリギノのOGだけど、結局困っちゃって、叔母のことを書いたわ」

「叔母、ですか」

「そうなの。デザイナーのフクイモモノ」

「えっ」

 なんと大物。


 生成りの短丈ブレザーに小豆色のロングスカートという、遠目からでもユリギノ生と分かる、だけど決して奇抜というわけでもないデザイン。

 夏服は小豆色と千歳緑のタータンチェック。ハイウエストのロング丈という形は冬と同じで、だけど涼しさを感じさせる。


 寒雁市の中学女子なら、一度は袖を通したいと願う――なんて大げさに言われる制服。

 それをデザインしたひとの縁者が、まさか目の前にいるとは。


「すごいですね」

 素直にすごいと思っているのに。

 小学生以下の感想しか出てこなかった。

「ね、すごいわ。フクイモモノのデザインは、今後のスタンダードになる……なんて言われるんだから。奇抜なはずの制服なのにね」


 そういえば、と福飯先生は付け足す。

「奇抜つながりなのかわかんなけど、夏休み明けにテレビのロケで来るって。たしか、ミスマチルダだっけ? あの、料理研究家と一緒に来るらしいわ」

「奇抜な料理研究家といえば、ミスまちこですか」

「そうそれ」


 何それ、知らない。

 母さんが帰ってくるなら教えてよ、父さん。――なんて、毒づいたって詮無いことだけど。

「フクイモモノさんと、ミスまちこを書くのも、ひとつの手なんでしょうか」

「そうねえ。家政科の伝説的なOGふたりだものね。だけど、綾街さんは普通科だし、学科に絡めたほうが調べやすいわね」

「誰もが知る、というのは難しいでしょうけど、誰か有名人がいるんでしょうか」


 福飯先生はうーんとひとつ唸って、

「普通科って、不思議なことに有名人が輩出されないのよね……良くも悪くも普通のお嬢様、なのかしら」

「堅実なひとが多いのかもしれないですね。わたしも、そうですから」

「確かにそうね。――綾街さんはまだ、進路の方向性も探している最中だし、特待生の維持にも成績が必要だものね。課題が多くて大変だと思うけど、頑張って」


 進路相談になっちゃいそうだ。

 まだ、どんな方向に進むのかはたしかに決まっていない。

 とりあえず母と同じような轍は踏みたくないから、堅実に、品行方正に生きたい。

 そのためには良い高校に入って……というのは達成できた。

 良い大学に入る。良い就職先を見つける。

 就職先から逆算すると、帝大もいいし、隣の市の商科大もいいみたい。


 だけど。

「やりたいことが見つからないうちは、苦手教科をがんばってみようかと思っています」

 わたしの決意に、福飯先生はにこりと微笑む。

「それが正解ね。さすが品行方正な特待生だわ」

 福飯先生は副担任として満足そうだった。


 職員室を後にしたわたしは、階段を下りて図書室に向かう。

 玄関ホールの端に、ガラス張りの扉がある。それが、図書室だ。


 ぎ、と音の鳴る扉。

 中は学期中と違って、冷房が効いていない。

 図書カウンターの奥には、知らない図書委員のひと。

 その手前、日陰になっている机には、ノートパソコンを広げた利用者。神野先輩だ。


 別に顔見知りでもないひとたちだから、挨拶を交わすこともなく、本棚に向かう。

 奥の方の書架が、雑多に並べられているコーナー。

 ちょっとだけ乱雑に収められているファイルが、過去の優秀作として表彰された、郷土史の資料らしい。


 いくつか手に取って開いてみる。

 わたしが好んで読むような小説や、エッセイ、果てはルールブックなんかとは違って手書きで、わら半紙が赤茶けるくらい昔にコピーされているもの。最近のものになると、ここ数年はパソコンで作られたものが主流になっている。


 不意に。


「課題かい? 綾街一香さん」


 神野先輩が立っていた。

 ざ、と通る風が、ポニーテールと小豆色のロングスカートを踊らせる。


「はい。先輩も、課題でしょうか?」

「わたくしは、活動よ」

 活動。ということは、文芸部かなにかの、なのかな。

「特待生の維持には、学内のテストで上位五パーセントか、全国模試で偏差値六十以上を維持すること。それに加えて、何かしらのめざましい実績が必要……お手軽なのは英検や秘書検定といったわかりやすい資格、基本情報技術者みたいな国家資格もいいわね」


 一息。


「そして。課題を通して、この揺貴町の歴史を調べる。実はこれが、穴場なのよね」

「あの……どうして、そんなことをわたしに?」

 違和感がある。

 大した仲でもない先輩が、唐突にこんなことを吹き込んでくる。

「調べてほしいことでも、あるんですか?」


 神野先輩は、緩く両手を合わせるようにして、にっこりと微笑んだ。

「わたくしの趣味は人間観察でね。課題なんて煩わしいことを、さっさと終わらせてほしいの」

「……そう聞いて、素直に協力するひとって、今までいましたか?」

「いなかったわね」

 あっけらかんとした答えに、ため息が出てしまった。


「なんだか神野先輩の掌の上で踊るのも癪ですけど……調べやすそうではありますね」

「おっ。乗り気になってくれた?」

「でもその場合、学校の図書室より、もっと大きい図書館がよさそうですよね。朝日神社の前の、市営図書館とか」


 くすりと神野先輩が笑う。

「それもそうね。あのお稲荷さんをきっかけにして、開拓の歴史を紐解くといいわ」

「どうして、そこまでして調べさせたいんですか」

「少しでも知ってほしいのよ。この町の歴史を」


 それがどう、神野マキナというひとにプラスになるのかはわからない。

 そして、わたしの成績になるという以上のメリットも感じられない。


 だけど。

 先パイに声を掛けるきっかけには、良いかもしれない。

 朝日図書館は、わたしにはなじみがないけれども、先パイなら知ってるかもしれないから。


「いつも仲良しのペアで、調べたらいいわ。勉強会もいいかもね」

「そうですね。先パイ……あきほ先パイに、聞いてみます」

「あきほ? ……ああ、ふふっ。なるほど。白瀬も喜ぶんじゃないかしら」


 なにか含みのある笑みを残して、神野先輩は小豆色のロングスカートを翻して去って行った。


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