事案第八号「コリジョンルール」(3)
ぐいぐい来るお姉さんの猛攻撃を躱すために、先パイはわたしを、部屋に押し込んだ。
「はあ……まったくもう。うるさくてごめんね」
そう言いながら、ポットとティーカップのセットをお盆に載せた先パイが、どこかうれしそうだった。
じんわりと暑い部屋。そこに、湯気の立つポット。
「ミスチョイスか」
「いえ、身体を冷やしすぎるのもよくないですから。お気遣いありがとうございます」
「堅苦しいなあ。うちの姉ちゃんだったら、氷たっぷり入れたアイスティーを頑なに要求されるところだよ」
先パイが手ずから注いでくれるのは、ただの紅茶ではないみたいで、どこかで嗅いだことのあるようなお花の香りが漂っている。
「ラベンダー入りのアールグレイだよ」
「あ、なるほど。不思議な香りだなって思いました」
「うちのパパ……父の会社で取り扱ってる商品でね。もし気に入ったら、一袋、どう?」
営業トークだなって思うけど、それはどうやらわたし向けじゃないみたい。
「お気持ちだけで」
「合わないか」
苦笑する先パイに申し訳ないなと思う。
だって、暑いから。
それよりも、さっきからずっと気になっているのは、お部屋の中だ。
白いペンキの塗られた学習机に、畳ベッド。このふたつが、大半を占めている。
ローテーブル代わりに文机が置かれていて、紅茶はそこに。
そして。畳ベッドの上には山のように、シャツと黒いロングスカートが、積まれている。
矢絣のシャツにえび茶色のスカートだとか、先ほどまで着ていたであろう立て襟の白シャツと黒のロングスカートだとか。
「先パイも、どれを着ようって迷ったんですか?」
「まあねえ。ほら、暑そうだったし?」
なるほど、なんて思いながら、先ほどまで先パイの身体を包んでいたシャツを手に取る。「あ、ちょ」と慌てる先パイの声は無視して、そっと鼻先に近づける。
シトラスの、濃い香り。
「わーっ!」
がちゃんと音を立てる文机の上。
わたしに向けて、先パイが目一杯、手を伸ばしていた。
「なんですか、先パイ。ちょっと、危ないですよ」
「危ないのは綾街だ!」
変なことを言う先パイ。
「良い匂いの理由を、突き止めなくちゃ」
「言うから、直接匂いを嗅ぐのはやめて……!」
真っ赤になって手を伸ばす先パイがおかしくて、でも、ちょっとかわいそうだから、もとあった場所に戻した。
からかうのも、ここまで。
事前に言ってくれたら、ちゃんと準備したのに。
「これに懲りたら、お家に誘ってくれるときは、わたしが理解しているか確認してくださいね?」
「はい、わかりました……いや、今回も言ったつもりなんだけど」
「ドキドキしてるんですからね? 急に連れてこられて、準備もできてなくて」
苦情に、先パイはすっと、アンダーリムの奥を細めた。
重ねてくる言葉の色は、からかい。
「でも、すっごいかわいいヘアメイクして、来てくれたじゃん?」
「それはっ。先パイに誉めてもらいたくて」
「かわいいよ。綾街は」
「……だめ、先パイ。顔、熱いです」
きっと、暑いときに熱い紅茶を飲んだから。
目の前に、少しだけ強張った顔の先パイがいるのは、きっと、鼓動や呼吸が同期してるから。
ゆずの香りが感じられるくらいに、真面目な顔の先パイが近くにいる。
「ねーえ、いっちゃんはパクチー大丈夫ー?」
リビングからの大きな声。
爆ぜる、背筋。
衝撃。
痛み。
「~~っ!」
「痛っ……たーい!」
衝突した音はかなり鈍くて。
お姉さんの質問には、息も絶え絶えに、「大丈夫じゃないです……」とだけ答えられた。
◆
色々と、あったんだとは思う。
だけど、あんまり覚えてない。
車中。
山道を走るための小さい車。ドアが前にしかない、かわいいその車は、お姉さんの愛車だっていう。
「なんかあったの、二人して」
家が駅から徒歩十五分だと言ったら、心配をしてくれて。
パーティの最中にもお酒を飲むのを我慢して、そうしてまで家まで送ってくれる。
片道三十分。
先パイが一緒とはいえ、初対面のわたしに、心を砕いてくれる。
やさしいひとだ。
「何かって、ねえ」
助手席に座る先パイは、窓にもたれかかっている。
物憂げな姿は、とてもよく似合う。
「ほんと、あんたって向こう見ずで、暴走癖があって、だけど一生懸命だから取り返しが付かなくなるんだからさ……」
「わかってるって。テルちゃんに言われなくたって」
「うるさいって思ってるんでしょ。いいの? 機嫌悪くしたら、わざとエンストさせて到着遅らせるよ」
「それは綾街に迷惑だからやめてよ」
やがて、国道を離れた車は、街灯もまばらなエリアに入っていく。
「北藍駅までが遠いねえ」
「地下鉄とJRの乗り継ぎで、一時間までは掛からない距離ですね」
だから。
返したいなと思ったら、夏休み中でも返すことができる。先パイの、イヤホン。
耳まで共有することなんかより大事件があったけど、だけど。
北藍駅まで着いてから、わたしのナビで住宅街を走る。
静かに、ゆっくりと。
見慣れた景色が、流れて行くのにあわせて。黙っていた先パイの吐息が深くなっていく。
ため息。なんだろう。
やがて、家に着いてしまった。
特に何かを言わずに、先パイは車から降りて、座席を倒した。
「ねえ、いっちゃん」
お姉さんは小声で、こちらを見てくる。
本当に目元がそっくりで、流し目にどきっとしてしまう。
「あいつね、正直に言わないと通じないからさ。言ってやってよ」
「――そうみたいですね」
「ねえ、変なこと吹き込まないでよ?」
いつもの優しい先パイとは違う、鋭い声音。
聞かれていたようには思えないけど、きっと、お姉さんへの警戒が強いんだと思う。
あんなことあったし。
「ここまで、ありがとうございます」
「良いってことよ。また遊びにおいでね?」
「はい。今度は、美味しいものでもご用意します」
「楽しみにしとくね」
ウィンクと共に送ってくれるお姉さんにお辞儀をして、先パイのもとに駆け寄る。
先パイは珍しく苛立っているみたいで、だけど、それは決してわたしに対する苛立ちじゃないっていうのだけはしっかりと伝わってくる。
「白瀬先パイ」
「……うん。一香」
一言ずつでも全然構わない。
だけど。
「わたし、ノーカウントだと思ってますから」
「えっ?」
「だから、これからも……先パイが帰ったころに、メッセ送りますから。変わらずに、いましょう?」
念押しするのには理由があって。
「いいけど、いいの?」
「それがいいです。きっと、お互いのために」
「綾街がそれでいいなら、そうしようか。ね」
「はい。それじゃ、また後で……おやすみなさいってメッセ、しますね。させてくださいね」
先パイは名残惜しそうに車に乗り込んで、わたしも車が見えなくなるまでじっと見つめてしまって。
そっと、唇に触れる。
ゆずの香りが、ほのかに残っているのも。それは、無効になったんだから。
◇
無事に帰れましたか?
うん。今日はありがとう。
言い忘れてましたけど、日付が変わる前に気付いてよかったです。
お誕生日おめでとうございます。
ありがとう。
一日付き合わせちゃってごめんね。
いいんです。わたしも先パイと会えてうれしいですよ。
またデートしてよね。
おうちに呼んでくれるときは、事前に教えてください。準備があるので。
どんな?
髪を巻いたり、とか。
呼ばなくても気合い入れてくれたじゃん?
それは、そうですね。かわいいって言ってくれて、うれしかったです。
あ、でも。髪が傷むから、あんまりやらないですからね。特別な時だけです。
わかったよ。私も特別感出すね。
「なんですか、特別感って」
メッセージのやりとりの履歴を眺めてみると、なんだかおかしな会話だった。
致命的な何かを避けて、うわべだけのやりとりをしているみたい。
吐息。
深さはきっと、支笏湖よりも深いんだろう。
会いたいなって、思ってしまう。きっと一日中一緒だったからの、寂しさ。
とりあえずという気持ちで適当に付けたテレビは、延長戦に突入したプロ野球の中継。アナウンサーと、解説者が、なにやら熱い会話を交わしている。
『カウントは、ノーツー。さあピッチャー投げた――打った、さあランナー走る! ああっと、キャッチャーと交錯! 判定はどうでしょう』
『これは走路に立っちゃってますねえ』
『ああ、セーフ! 均衡が破れました!』
「ぶつかったら、セーフなんだ」
野球のルールは良くわからないけれども。
「そっか」
なんだか、胸の奥がぽっかり、空いた気がした。
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