事案第八号「コリジョンルール」(1)
夏休みが始まって五日。
七月二十九日、天気は快晴。
日が高く上って、窓から差し込む光量は少ないはずなのに、少し汗ばむ熱気。
高めの温度に設定したエアコンは、エコを意識したわたしの思いとぶつかるように全力投球を続けている。
今日はお出かけするから、家の中を冷やしてしまうのももったいない。だけど、汗をかくのも……という狭間の葛藤は、どうやら自然環境の前では無力だったみたい。
普段はしないヘアアレンジをしようと、アイロンを使ってみたのも、悪かった。
熱いの、暑いの。髪が熱を孕むのを、エアコンの風が冷やしてくれるのが心地よい。風でミストが散ったのはもったいなかった。
つけっぱなしのテレビは衛星放送のチャンネルで、アメリカの野球が中継されている。地元の球団から飛び立った日本の大エースが力投を続けている。
熱の籠もった毛先をエアコンで遊ばせながら、その様を見守る。
歓声、いや、悲鳴。
打たれたボールがお尻に当たったらしい。
それでも大エースは汗を拭い、平然とした顔でボールを受け取った。
すごいなあ。
高校卒業からの大活躍、モデルの奥さんと離婚、国際大会での不振と締めくくりの二年近いリハビリを必要とした大怪我。中継から聞こえてくるエピソードは、栄光とあやまちの繰り返し。
野球は詳しくないけど、努力家というのはよくよく伝わってくる。尊敬できる人なんだ、と思う。
――なんて思いながら、手のひらに伸ばしたヘアオイルを、粗熱が取れた毛先に揉み込む。ほわっと、鈴蘭の香りが染みこんでいく気がする。
この順番でいいんだっけ。普段、アイロンなんて使わないから、自信がもてない。母さんはアイロンもドライヤーも同じだと言ってた気がするけど。
このあと、朝日駅で待ち合わせ。五日ぶりの白瀬先パイ。
高めの位置でまとめて、ポニーテールにする。アイロンで巻いたおかげで、躍動感が出たと思う。
……変じゃないよね、この格好。
髪も気合い入れすぎには見えないよね。
……正解がわからないや。
◆
お昼を前にして、朝日駅は雑踏を切りつけるようなタイヤの音と、電子的な鳥の声に彩られていた。
ピヨピヨからカッコウに変わるのを合図に、顔を上げる。
青。
快晴の空をバックにしても有り余る、LEDの光。
日陰にいればいいのに、白瀬先パイは日傘も差さずに立っていた。
「お待たせしました、白瀬先パイ」
名前を呼ぶ。
ちょっと気恥ずかしい。
「やあ、綾街」
カンカン帽の下、アンダーリムをこちらに向けた白瀬先パイの様子はいつもどおり冷静で、大エースのクールな顔が重なる。
「暑くないんですか? 長袖」
「直射日光が当たるより、涼しいんだよ。私からしたら、綾街の格好のほうが日焼けしそうで、暑そう」
「そうでしょうか……でもやっぱり、長袖って違和感です」
「大正ロマンってこういうことなのよ」
「今は令和ですけど」
「通じないかあ」
苦笑すら涼しげ。
だけど。ウルフカットの襟足が、ぴょこんと跳ねてる。
「寝癖?」
「癖毛だから帽子で隠してるの」
「あ」と、白瀬先パイが小さく零した。
何か、不備でもあったかな? と身構えてしまったわたしを、細目で見つめてくる。
「眩しいな」
「はい。日差しが強いです。早く、地下鉄に乗っちゃいましょう?」
「うーん……そうね。誉めるのはあとでいいか」
「待って、先パイ。誉めてくれるなら今がいい」
移動しようとした白瀬先パイを捕まえて、きっと睨む。はぐらかされないように。
「言ってください。わたし、また空回りしてたら、恥ずかしいです」
思い出すのは、初めてお買い物に連れて行ってくれたときの恥ずかしさ。
今ももし変なところがあるなら、早めに指摘してほしいんだ。
「日焼け止め、塗ってる?」
「はい。日焼けすると、痛くなっちゃうから。強めのをしっかり」
「帽子とか、日傘は?」
「日陰を選んで歩きました。日焼け対策などバッチリですよ、先パイ。さあ、誉めて」
詰め寄ると、白瀬先パイは目を逸らし、それから、遠慮がちにわたしの上のほう――頭を見て、微笑んだ。
「コテで巻いてきたの?」
「はい。気合いを入れました」
「いつもと違うね」
「はい。先パイと会うから気合いを入れたんです。さあ、誉めて」
「ぐっ」
頑なに、白瀬先パイの口から、かわいいっていう言葉が出てこない。
だから、一歩を詰め寄る。
髪が揺れる。ヘアオイルの鈴蘭がふわっと舞った。
シトラスと、鈴蘭の香りが混ざる。
「ねえ先パイ。いつまでも誉めてくれないなら、お互いの香りが混ざっちゃうくらいに迫ってあげますけど? それとも……ちんちくりんがこんな格好するの、おかしいですか?」
「ああっ、もう! わかった、降参! 綾街、びっくりするくらいかわいい! 全部言うよ、覚悟いいね?
まず髪から行こう。巻いてきてくれたんでしょ? いつものストレートで降ろしてるのとか簡単に縛ってるのも合うけど、すっごい素敵。つやつやでうらやましい。クールな顔立ちに似合うんだよ、すっごい綺麗。化粧してないんでしょ? 日焼け止めだけでこんな白い肌でさ、血色悪くも見えないし、それが白いリブのさ、ノースリーブにめっちゃ合うんだよ! お肌もつるつるでさあ! 私が教えたんだから当然なんだろうけどサイズぴったりになって変な浮き方もしてないし、身体のラインが綺麗に拾えてるの。そのニット自分で選んだんでしょ? バッチリ合ってるんだよ。しかも段差が出てないの。私が教えてないことまで実践してるんでしょ? 興味持つってすごいなって思ってたんだよ。やっぱり綾街って頭がいいし要領さえ掴めたら応用完璧なんだなって。それが顔にも、身体にも合う選択が出来てるんだからさ! しかも、ショートパンツ! 黒! 細い足のサイハイが映えるんだよ! ねえ、どこから誉めたらいいか悩んでた私にさ、ぐいぐい来やがって! とんでもない誕生日プレゼントもらったわ。かわいい! めっちゃかわいい! このままぎゅって抱きしめてうちの子にしたいくらい!
――はあ……はあ……これでいい?」
「あ、はい。……なんか、ごめんなさい、ありがとうございます」
紅潮した白瀬先パイの怒濤の勢いに、わたしは三歩、引いてしまった。
いやだったわけじゃないけど、熱量がすごくて。
ちょっと、距離を置く。
今、先パイの香りを感じたら。
どうしたらいいかわからない。
視線が上げられない。
先パイの黒いロングスカートと、わたしの臙脂のスニーカーが、色飛びしそうなアスファルトの照り返しに乗っていて。
「あの、綾街……ごめん、最初にこれを言えばよかった」
その優しい、けれども遠慮がちな声に惹かれて、自然に顔を上げてしまった。
アンダーリムの奥。淡い茶色の瞳。
「かわいいよ、一香」
「~~っ!」
名前呼び!
「な、ぅ、――ありがとうございますっ!」
お礼が抵抗なんて、ちょっと、負けた気がした。
◆
熱風が吹く地上から、湿気の立ち込める地下に降りて。
きゅん、きゅんと音の鳴るホームに立って。
けたたましい音とともに滑り込んできた地下鉄に乗り込む。
「綾街、座っていいよ」
「大丈夫です。先パイこそ、こっちまで来てくれて疲れてないですか?」
「これから遊ぶってのに疲れてたまるかい」
「それもそうですね」
書生風の白瀬先パイと身軽なわたしの組み合わせは、遊びに出かける女子高生としては違和感のないペアなのかな。
隣に立ってつり革に掴まるのが、お似合いだといいんだけど。
揺れる。
開いた窓から吹く風に、わたしの髪が。
風上に立つわたしの毛先は、白瀬先パイにこしょっと触れている。
揺れる。
急カーブで、車体が。
「おっと」
バランスを崩した白瀬先パイの肘が、わたしにこつんと当たった。
「あ、ごめん」
「大丈夫ですよ」
「こっちの手で掴まると、綾街のかわいい顔が見づらいね」
そう言って、つり革を左手に持ち替える。
「もう。その手には乗りません。雄弁は銀と言いますから」
「ちぇっ」
拗ねる白瀬先パイから隠れるように、両手でつり革を掴む。
「それで、わたしをかわいいと思う白瀬先パイは、どこに連れて行ってくれるんですか?」
窓硝子に反射する白瀬先パイの目線は、ずっとわたしを向いているようだ。
「先パイ?」
「え、ああ、ごめん。なんだっけ」
「どこに行くんでしたっけ」
白瀬先パイは中吊り広告に目線を向けた。
寒雁駅の百貨店で、どこかの物産展をやっているらしい。
「まずお昼を食べようと思うんだけどさ」
「いいですね。おなかぺこぺこです」
「一応、候補はあるんだ」
「どんな?」
ちょっと言いづらそう。
「……ピザとパスタのテーブルオーダーバイキング。でもさ、綾街がすっごいおしゃれしてきてくれたから、さ。ちょっと考えちゃうよね」
「いいじゃないですか。いっぱい食べられるの」
「でも、服のラインに響くよ」
「それは想定外でしたね……困ったな」
白瀬先パイが気を利かせてくれたところが、パスタのソースが跳ねちゃうよとか、そういう子どもっぽいことじゃなくてよかった。
わたしの服選びを、こういう端々で肯定してくれるの、すごくうれしい。
しかも、わたしの薄い身体を気に掛けてくれている。本人が気にする以上に、白瀬先パイは、わたしのことを知ってるんじゃないだろうか。
「先パイのおかげです。ファッション誌も、読むようになったんですよ?」
「へえ。変な方向に学ばなくてよかった」
「正解がわからなくって。わたしにとっては先パイからの情報が、唯一の答えですから」
ちらっと盗み見た白瀬先パイは、やっぱりわたしのほうをじっと見ていた。
「ねえ、どこ見てるんですか」
問い。
アンダーリムの奥、薄い色の瞳が、逸らされた。
「胸?」
「……その、あたり」
「もう。えっち」
わたしがからかうように言った苦情に、白瀬先パイはとりあわない。
「いや、私が教えなきゃ、サイズがあってない下着を着けた子がさ、服にラインが出ないように気をつけてたり。薄いリブだから透けるかなと思ったけど、よく見ても透けてないし。インナーの色も考えたんでしょ」
うれしい。
走行音で周囲には聞こえない程度に、だけどわたしの耳には直接届くように、唇をそっと寄せてきて。
風上に立っちゃったせいで、白瀬先パイの香りはあまり感じないけど。
わたしに気遣ってくれて、誉めてくれて。
うれしいな。
「タンクトップと、キャミって、違うんですね」
ちょっと浮ついた気分を抑えようと、どうでもいい質問を投げかける。
「そうだね。その格好なら、タンクトップで正解だと思うよ」
「見て分かるんですか?」
「そりゃあ、ねえ。姉ちゃんのファッションチェックを乗り越えてきたんだよ、私も」
一息。
「私ってあせっかきだから、綾街みたいな格好すると、脇の下の汗染みとか出来ちゃうからね。それなら、割り切って長袖着てやるって思ったんだ。そうしたら、汗パッドとかも着け放題だし」
「でも、制服だと半袖……あ、先パイって半袖を着てないですね」
たしかに、白瀬先パイが二の腕を出しているところを見たことがない。
ただのファッションだけ、というわけじゃないらしい。
「日焼け対策にもなるしね」
そう言う先パイの立て襟のシャツが、ちょっとくたっとしている。
うず、と胸がうずいた。
ノリをパリッとさせたい。
「あとはね」
わたしの欲望をよそに、先パイは言いづらそうに、前を向いた。
「綾街の脇の下が綺麗だなって……見てました……ごめん、やらしい先輩で」
「……えっち」
どうしよう。それ以上言葉が出てこない。
何も言えないまま、寒雁駅で地下鉄を降りると、颯爽と歩く先パイの後ろについて歩く。
地下道は涼しくて、それでいてイベントや展示の熱気、活気を感じる。
手工芸の木工品。
富士の名を冠する山の写真。
グリーントランスフォーメーション。
「世の中には、色々あるんですね」
「そうだね。一年生だと、郷土史の課題が出てるんじゃない? 綾街はテーマを決めた?」
問われ、あまり明確になっていないことに気が付く。
「なんとなくですけど、ヘアケアの会社について調べるのも、面白いかなって」
「ヘアケア? なんで」
「わたしの付けているオイルが、わりと近くに工場があるんだとか」
近くとは言っても、車で一時間。
寒雁駅から行こうと思ったら、特急の距離の町。かつての炭鉱町だ。
「そっちのほうなら、馬具とかも有名だよね。でも、ちょっとテーマとずれるんだよね。開拓の歴史を絡めると、学校側の意図に沿うかなあって思うけど」
「意図、ですか」
先パイはひとつ頷いて、
「去年表彰された人は、揺貴町の開拓史を書いていたよ。図書室のどこかに、コピーが残ってると思う。出来で言えばもっと素晴らしい作品はあったけど、それが表彰されたということは、狭い範囲のことを調べてほしいっていう学校側の狙いが透けて見えるよね」
その後に小さく、悔しいよねと呟いたのは、喧噪に消えていったことにした。
白瀬先パイの足取りは軽やかで、明確に目的地を目指して歩いているようだ。
「どこに行くんですか?」
「第二候補。綾街がイタリアンの気分じゃなかったときに連れて行こうと思ってたところ。大丈夫、そんなに高くないから」
「値段は気にしなくていいですよ」
「でも、この後いっぱい買い物する予定だから」
なるほど。先パイは、ある程度の予算を決めているんだ。
だから、テーブルオーダーバイキングだとか、不測の事態が起こらないように計画したんだろう。
お店の予約をしないのは、わたしが不確定要素だから。
馬鹿だなあ、なんて思っちゃった。
事前に相談してくれたらよかったのに。
「優しいんだから、先パイは」
「自分のためだよ」
そっぽを向いた先パイは、カンカン帽の角度を直した。
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