事案第七号「読み」(2)
夏休み突入前日の図書室。
わざわざ学校で涼む必要もないのか、早く夏を謳歌したいのか、利用者の数は少なくて。
入り口近くで、壁を背にする神野先輩と、カウンターの奥の図書委員の気配だけが、誠実な空間を作っていた。
調子がずれたトランペットも、ソフトボールの打球音も、今日ばっかりは聞こえてこない。
「綾街一香さん」
不意に、神野先輩に声を掛けられた。
名前を知ってはいるけど、そこまで親しくないひと。
それなのに。彼女はわたしのフルネームを、あやまち無く呼べる人だった。
「こんにちは、先輩」
「なぜ、声を掛けられたのかという顔をしているね?」
「読心術、でしたっけ」
「そのとおり。あまり言葉を交わした間柄ではないのに、君はわたくしのことを覚えていてくれるようね」
ミステリアスといえば聞こえはいいけれど、静かな口調、そよぐ風のようなまなざし、視線を落とさずにキーボードを叩くスピード、どれをとっても、不気味なひと。
「失礼なことを考えているね?」
「あ、はい。先輩はブギーだな、って」
「内心で言い換えたでしょう。誉め言葉として受け止めるのも難しいな」
苦笑するのに合わせて、ポニーテールが揺れた。
その様はまるで、しなだれる枝のよう。
「先輩。どのようなご用事ですか?」
「ん、君に興味が沸いたからね」
「そこまで興味を引くような、目立つ人間じゃないと思いますけど」
背も低いし、髪が長いと言っても腰までだから奇抜なほどじゃない。
学年主席という優等生でもない。
ほとんど関わりがない先輩から興味を持たれる理由が、思い浮かばなかった。
「君は一生懸命だからね」
わたしの戸惑いを感じてか、神野先輩は答えを提示してきた。
「素養があるなら、小説以外も読んでほしいのよ」
「活字ならなんでもいいですけど、例えばミステリなんて推理もしないし、ファッション誌はコラムばかり目が行くタイプですよ」
「それでいいよ。そのうち、わたくしの筋書きに感想をもらいたい」
たしかに、神野先輩はいつも何かをパソコンに打ち込んでいる。文芸部だからか、個人的に小説でも書いているのかと思っていたけど。
「はあ。わかりました。先輩の周囲に小説を読む人がいないから、白羽の矢を立てた、と」
「そのとおりさ。これから忙しい夏休みだけれども、時間はたっぷあるからね。とはいえ今日という日は有限。さあ、摂取したまえよ」
大仰な人だと思いながら、神野先輩に背を向ける。
図書室内を見渡す。いつもの小説のコーナー。往年の名作から、現役の作家までラインナップされている。
その中から、ちょっとわたしに似た名前の作家を見つけた。
ページを手繰る。
くたびれて赤茶けた小口と、ぱりっとした紙面。紙のにおい。
サスペンス。
香りが、シトラスを含んだ。
日差しが角度を得て、窓から少しだけ射し込むのを背景にして、待ち人が来た。
「綾街、今日は何を読んでるんだい?」
「ミステリです。作者の名字が、わたしに似ていたので」
「おもしろい?」
「とても考えさせられます。思い込みが真実を隠すのか、と。ねえ先パイ」
ユリギノ女学院への憧れ。
クラスメートからの視線。
そして、しらせ先パイとの出会い。
思い込みはこわいと思う。
「ねえ、先パイ。いつもわたし、しらせ先パイって呼んでますけど……しらせというのが、名字じゃないんですね?」
先パイは、意図をつかみかけたのか首を傾げる。
それから生徒手帳を取り出して、くすりと吐息を漏らした。
「そういえば私たちって、自己紹介したこと、なかったね」
「はい。先パイがクラスメートさんや図書委員の方に、しらせと呼ばれていましたから」
「しらせほにゃららだと、勘違いするよね」
生徒手帳カバーを開いて見せてきた。そこには、秋穂白瀬と、書かれていた。
「名字と名前がひっくり返ってますね……」
「よく言われる。あと、綾街のことはフレンドリーな子だって思ってたよ」
いままで、とんだご無礼を働いていた。
「馴れ馴れしかった、ですよね」
「ううん。私だって、ほぼ初対面から呼び捨てにしてたじゃん」
それは、パーソナルスペース激狭ガール特有の馴れ馴れしさかと思っていた。
そっと、先パイはわたしの顔をのぞき込んでくる。
ピンク掛かったレンズの奥で、見下ろされる。
「先パイ……?」
「いつか」
時制のいつか? それとも、わたしの名前?
心臓が走り出す。
「私は、ちゃんと綾街の名前を知っていたのにね」
ゆずの吐息。
「ね、一香?」
――ほわあ。
先パイが低い声で、わたしの名前を呼んだ……それが、強烈な衝撃となって、わたしの脳を揺らした。
名前を呼ばれるという経験がいままでに、あまりなかったこともあって、すごく、衝撃的。
図書室の入り口あたりでキーボードを叩く神野先輩にも聞こえているんだろう。タイピングのスピードが上がっている。――わたしの鼓動くらいには、速い。
「あの、えっと……これから、なんて呼んだら、先パイはうれしいですか?」
舌が回らなくなりそうだった。
言葉が紡げた。
それはただの質問だった。
「今までどおり、名前で呼んでよ。あ、でも――綾街が言う“先パイ”の響き、甘くて好きだからさ。“先輩”じゃなくて、“先パイ”がいいな」
「はい……白瀬先輩」
「固い」
「じ、じゃあ……」ううん、と咳払い。「白瀬先パイ……?」
に、と。レンズの奥の瞳が細くなった。
「合格」
すごく微妙なニュアンスに、白瀬先パイはこだわりを見せている。
けれども、わたしはもう、“しらせ”とは呼べなくなってしまった。名字ではなく、先パイの名を呼ぶその意味を、知らないわけじゃない。
もしもこれが、恋人との睦言だったのならば。
ただただ甘い声音で、しなだれかかるのでもいい。
けれどもこれは、わたしと先パイの――白瀬先パイとの、現実なのだから。
「白瀬先パイは、その……わたしのことが、大好きだから、知っててくれたんですか?」
何を言ってるんだわたしは!
めんどくさい女!
「そうだね」
なのに。
先パイは照れることもなく、素直に頷いた。
そう。レンズの向こうで、いたずらっぽく半弧を描く瞳があるから。
「私は綾街が大好きだからなあ」
耳が熱い。
唇が戦慄く。
「……なんてね」
「どこまでが本気の言葉なんだか、わからなく、なっちゃいますね。先パイ……」
言葉が、浮かばなくなっちゃった。
先パイもそうみたいで。だから。
何か忘れている気がするけれども、この居心地の良い据わりの悪さを、どうにかしようだなんて、思いたくなくなっちゃった。
◆
「わたしは一体、どうしちゃったんでしょうか」
あれから、何か本を読む気持ちにもなれなくて。
けれども先パイを置いて帰るのも、違うような気がして。
なんとなく、お社に手を合わせに来てしまった。
そう。逃げてきた。
「名前の読み間違いどころか、ずっと下の名前で呼んでいたことが、こんなに恥ずかしいのって、どうしてですか?」
こんなことをユリギノさんに聞いても、答えなんかあるわけがない。
いつもは答えをくれるように揺れるポプラも、騒がしい風も、今は静かなままだ。
「夏休みまで、結構がんばって、品行方正に過ごせていたと思うんですけど……」
特待生として、成績も残したし。
校則違反だってしていない。
家のことだってがんばった。
なのに。
白瀬先パイが、わたしをおかしくさせるんだ。
「綾街、お待たせ」
「待ってませんよ、白瀬先パイ」
いつもと同じ発音なのに、その呼びかけが名前だと意識すると、とても、気恥ずかしくなった。
どうしてくれるんですか。
「ごめんごめん、夏休みの課題、教室に忘れてさ」
「委員会の仕事もそこそこなのに、課題を忘れるなんて」
「お、どうした。虫の居所が悪いのか?」
心配そうに見つめてくる。
「綾街はまだ進路を決めてないから、出た課題も多いだろうし。大変でしょ。夏休みはちょこちょこ合流して、一緒に課題やろうよ」
お社に一礼をしてから、白瀬先パイを置いて歩き始める。
「先パイがひとりで課題を片付けられないタイプだというなら、お付き合いしますよ」
「お、生意気」
後ろを着いてくる先パイ。きっと、真面目に課題をこなして、そのうえでわたしに会おうと言ってくるんだろう。
夏休みというのは、こうやって過ごすんだとでも、教えてくれるようにして。
「もしよければ、うちで勉強会とかね」
「そうですね。この間は来ていただいたので、今度はわたしが」
「姉ちゃんに車を出せるように言っておくからさ」
「ご家族に迷惑をおかけできませんって」
軽口。
あるいは、本音。
読み違いも乗り越えていつもどおりに話してくれる先パイには、わたしは素直に向き合えずにいた。
/◆◆◆
鎮守の森。
その小さなお社はユリギノ女学院の側にあり、時折神に縋りたい生徒が訪れる。
親しみを込めてユリギノさんと呼ばれる女神は、歯噛みしていた。
「あやつら、余の手のひらの上では簡単に踊らぬというか、勝手に踊っておるのう」
考えていた方向とは少し、ずれてきている。
それでも女神として、この学院の生徒である以上、最大限見守って行きたいのだが。
吹く風にも、奪った体温にも動じることなく、ふたりはしっかりとした足取りでバス停に向かっている。
「自分の足で歩くその道は、余の望む方向。あまり、口を出すタイミングではないのかも知れぬのう」
夏の熱気に中てられた少女たちを見送るその手には、ペンとメモ帳。
読み違ったのは、相手の心境か、それとも?
「ふむ。報告書を認めるとしようかの」
小豆色のロングスカートを翻した女神は、下校の時刻を知らせるチャイムを耳にしながら校舎内に戻っていった。
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