事案第六号「窃盗」(1)
「お、綾街。今日は文庫じゃない本を読んでるんだね。何を読んでいるんだい?」
ピンクのレンズ越しをわたしの手元に近づけて覗き込んできた先パイの、シトラスの香りがふわっと漂った。
七月も半ばに差し掛かり、あと一週間もすれば夏休みという浮ついた時期。
昼休みの図書室には、いつもよりは人が多い――純粋に、教室より涼しいから。
先パイの質問に、わたしは視線を上げないまま、一説を読み上げる。
「――己は死人の着物を剥いだとて、それが悪うござんすか。己の命を生きるためには、たしかに致し方ないことでしょう ――ですって、先パイ」
「へえ。そりゃ、刺激的なものを読んでるね」
本の似合う見た目をしておきながら、あまり本を読まない図書委員の台詞として考えると、なかなか面白いことを先パイは言う。
「今のライトノベルと比べると、とても読みにくいですけど、すごく、味わい深いです。教科書に載るというのも、納得します」
「誰の作品だったっけ? なんか、記憶があるような」
「芥川です。一年生の教科書にも載ってますから、習ったはずですよね」
先パイが小説を読んでいる姿はあまりイメージが湧かなくて、どちらかというと、銀縁の奥を細めながら文庫を開いているだけ、という姿なら想像できる。
でも。実際の先パイは、対わたし時専用のおしゃれ眼鏡で、まるでわたしの気を引くためだけに、話しかけてくる。
文学に耽りたい後輩を邪魔する、わるいひと。それが、しらせ先パイだ。
それにしても。
しばらく本に熱中していたせいか、図書室の空気が冷えていることに気が付いていなかった。
半袖のブラウスだと、肌寒く感じる。
本を閉じて、鞄からカーディガンを取り出す。深緑の、透け感のあるカーディガンだ。
「あ、それ」
先パイが、ため息交じりに声を漏らした。
「私のだろ」
「そうですよ」
我ながら、あっけらかんと返事したものだと呆れてしまう。この間お借りして、返しそびれていたから持ってきたのだ。
「返しなさいよ」
「ええ、お返ししようと持ってきたのですけど、ごめんなさい、先パイ。もうちょっと借りて、いいですか?」
返事を待たずにカーディガンを羽織ると、先パイは呆れたように苦笑を漏らした。
「寒いの?」
「ちょっとだけ。あ、でも、他の方が涼を得るためにいらっしゃるでしょうから、着込めばいいんです」
先パイのカーディガンは、わたしにはちょっと大きくて、ぶかぶかだ。
だけど、染みついた制汗剤のシトラスだとか、先パイのお家の柔軟剤の香りがして落ち着くし、鼓動の速さも生まれる。
「へへっ。おっきい」
「綾街、何センチあったっけ」
「公称、百五十センチです」
背筋をしっかりと伸ばして、百五十センチ。
最近は姿勢良く歩けているから、嘘じゃないはず。公式記録は、その、正確に言うなら、四捨五入が必要だった。
「私と八センチ差もあれば、でっかいよね。元々オーバーサイズで買ったものだし。ちゃんとサイズの合うのを買いなさいよ」
「でも、新品にはない良さがあるんです」
「高かったの。綾街でも、あげられないよ」
抵抗むなしく、すげなく言われた。
「もらうつもりはないです。ちゃんとお返ししますよ」
「洗わなくていいからね。洗い方にこだわりがあるから」
「ニット洗いはわたし、極めてますよ」
言い返すと、先パイがわたしの耳元に唇を寄せて、
「ブラの洗い方も知らなかったのに?」
ささめく吐息に混ざるゆずリップの香りが、わたしの血流を加速させた。
「おっ、己は死人の着物を剥いだとて、それが悪うござんすか」
「私が下人なら、今すぐ綾街の制服を剥いでやるんだけどな」
「それは、悪うござんすね」
くすりと。先パイが笑う。
でもおかげで、わたしからカーディガンを剥がすのを諦めてしまったらしい。
他の利用者さんのことを考えて口をつぐんだわたしに合わせて、無言で椅子に座ってくる先パイ。
もう、薄いブラウスごしの柔らかい感触に慣れてしまった気がして。
わたしの冷えた肌が、先パイの熱を奪っていくから――ひとりでお昼休みを過ごしていたわたしの姿を、今は誰も知らない。
◆
ユリギノ女学院の制服は、家政科のOGであるフクイモモノさんがデザインしたもの。夏服も同様で、ハイウエストのスカートという共通の意匠になっている。
冬は小豆色のマキシ丈。
夏は小豆色と千歳緑に生成りの差し色が入ったタータンチェック。少し爽やかさがありながらも、ロングスカートの部類に入る長さ。
生地の薄さのおかげで暑いというわけでもないけれど、それでも、ほとんど冷房が整備されていない古い校舎では、窓を開け放つことによってわずかな風を拾う必要がある。
難儀な校舎。
席替えで廊下側の席になったおかげで直射日光も受けずに済んでいるけど、風が弱いのが難点。
大きく、吐息する。
シトラスが、わたしの服から香る。
先パイの制汗剤の残滓――良い匂いだ。
思わず、頬が緩んだ。
ふと。
こちらを見て、ささめき合うふたり組が視界に映った。
いつもの組み合わせ、宇和さんと、笹芽さんだ。
サイズの合わない大きなカーディガンについて、なにやら言っているのかもしれない。
けれども。
・体調に合わせて黒または深緑のカーディガンを着ることは妨げない
っていう、服飾規定があるのだから。
ちょっと暑さを感じていたって、これを着ることで体調に良いのなら、妨げられないはず。
でも、暑い。汗で張り付くと不快だから、髪だけはまとめておこう。
ささっと高めの位置で括って、小豆色のヘアゴムで束ねる。
ゴムの色まで指定されているのは、昔に勃発した、生徒の反乱が原因らしい。
ゴムならいいんだろう、と。
わたしだって、中学の性教育の時間で聞いたから、ゴムという単語が何を意味するのか、どのように使うのかは理解している。
だからこそ、そのエピソードを聞いた時の驚きと言ったら、衝撃的すぎて。
品行方正に生きることを目標に掲げるわたしには、そんな大胆なこと、できないなって思ったものだ。
「はーい、席につきなさーい」
次の授業は、地理。
東アジアならなんとなく場所はわかるんだけどな、なんて思いながら、熱気の籠もる教室で、満腹の状態で、先パイの香りに包まれていると――逆に目が冴える。
やっぱり、先パイの香りはいいなあ。
血流とペンを走らせる速度はきっと、比例している。
安心してください、先パイ。ちゃんとお返ししますから――だから、替えを用意してくださいね。じゃないと夏休み、先パイと会えなくなって、寂しいから。
「資源の奪い合いが――」
「先生、その話、先週も聞きました」
「大事な話だからまた話してやってるんだぞ」
大人でも苦しい言い訳をするんだ、なんて思いつつ。考える振りをして、袖を鼻先に持って行った。
うん。大事な資源が目減りしていう気がする……。
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