事案第五号「クリーニング」(2)
夜が明けて、文化祭日和の良い朝になった。
ちゃんと乾いた下着を身につけて――カップに肉を詰め込む? っていうのも、ちゃんとした。ブラウスにもアイロンを掛けて、パリッとしたのに袖を通す。
それから簡単に朝食の準備。チョコフレークに牛乳をどぱっと掛けて、しゃぐしゃぐと咀嚼しながら天気予報を眺める。
「一香。おはよう」
寝室から、父さんが出てきた。
目が開いていない。きっとまだ眠たいんだろう。だけど、登校準備をしているわたしに起こされてしまったんだ。かわいそうに。
「おはよう。何か食べる?」
「コーヒーだけもらおうかな……昨日、飲み会でね」
「もう。また、五次会まで行ったんでしょ。まだお酒くさいよ?」
「正確には三次会後のラーメンを食べて、そこから居酒屋に連行されたんだよ」
「お酒を飲んでるなら、一緒だよ。普段から忙しいのに、身体を壊しちゃうよ」
口うるさくなったな、なんて苦笑する父さんのために、コーヒーの準備を始める。とは言っても豆を計って機械に入れて、水を入れたタンクをセットして、スイッチを押すだけなんだけど。
「今日は学校なのかい? 土曜日だろう」
ごぽごぽ鳴る音をBGMに、父さんの声を聞く。辛そうだ。
「文化祭の一般公開日だよ」
「ありゃ、そうだった……見に行かなきゃな」
「いいよ。出番があるわけでもないし。お酒飲んでなかったら、学校まで送ってよって、甘えるところだったかもね」
「それは、貴重な時間を損した」
コーヒーメーカーから香ばしい香りが立ち込めてきたから、マグカップを用意して、きっちり二杯分を待ち受ける。
できた。父さんは飲み会の次の日、コーヒーを二杯飲む。
大量のコーヒーを零さないようにそっと注ぐのは、小さい頃の失敗のせい、なんだと思う。食べ物や飲み物の粗相は、母さんにすごく怒られたから。
「はいどうぞ。準備してるから、おなかが空いたら言ってね。何か食べるもの、用意するから」
そう言い残して洗面所に立つ。
髪を梳かして、今日はふたつ縛り。うなじの高さで、小豆色の輪ゴムでまとめる。ポニーテールほど引っ張らないから疲れないし、いつもの降ろしっぱなしより、ちょっと手を掛けて見えるはず。
先パイは、好きかな。
できあがった自分の姿を、鏡映しにしてみる。
先パイのおかげで、脇腹や乳首が擦れたりしなくて、とっても快適。
快適だと確かに背筋も伸びるし、ブラウスを押し上げる起伏もあるような気がしてくる。
お肉は寂しがり屋なようで、ちゃんと仲間を作ってあげると寄り添ってくれるらしい。
着こなせている。
これは、いいシルエットなんじゃないかな。パッド分の厚みかもしれないけど、身体が綺麗だ。
この間、先パイが言ってた。わたしにはちゃんとくびれがあるよと。小学生みたいな寸胴なんじゃなくて、大人の身体つきになっていて、単純に華奢なんだ、って。
それって、先パイの言う、身体に合う服が少ないってことなのでは? なんて疑問もある。だって、百五十サイズが合わなくなっているってこと……だと思う。
「悩みは尽きないけど……でも、ちゃんと生きてる」
よし。
張り切って学校に行って――朗読劇の音楽は録音済みだから、ひとりでどこかをふらつくしか選択肢がなさそうだけど、元気に登校しよう。
◆
気合いを入れて登校したわたしは、どうやら、あやまちをおかしたらしい。
クラスメートたちは、クラスTシャツで登校してきていて、周囲はビビッドな友情讃歌に溢れている。
きっちりと制服で登校して、ぷっかりと浮いたのはわたしだけだったようだ。
「綾街さん、どこかで着替えて来ようよ」
声の大きい宇和さんがそう言うから、クラスメートたちがさあ行け今行けという空気になってしまって、仕方がないからブラウスのボタンに手を掛けたら、慌てて止められた。トイレに行け、と。
別に女同士、構わないだろうに……。
更衣室でお互い見せ合ってるんだから。
反論するのも面倒だから、言われたとおりにしたけど。
でも。
赤くて派手な色の、先パイとのお揃い。
うっかり周囲に見せなくて良かったのかもしれない。
いや、でも。
更衣室で晒してる。
高校生の距離感という物を掴めないまま、今に至ってしまったのだ。
クラスTシャツに着替えると、クラスメートたちに見た目は溶け込んでしまう。けれども、朗読劇での出番がないわたしは、そもそも所在がない。
だから仕方がなく、スケッチブックを持ってきて、ペンを走らせる。
朗読劇
一年特進
見に来てね
「よし」
五七五。字余り。
「わっ。達筆~」
出来上がりに満足していたところで、笹芽さんが感心してくれた。
誉められるのは、ちょっとだけ誇らしい。
「これを持って、校内を一周してこようかと思うんです」
「ナイスアイディアじゃない? みんなで持ち回ろうよ。早月、どう思う?」
「めっちゃいい!」
宇和さんは、声が大きい。
その声によってあっという間にスケッチブックはわたしの手を離れ、朝一番での出番がないグループが、わいわいきゃっきゃと持って行ってしまった。
わたしの時間つぶしが、なくなってしまった。
ひとり手ぶらで、校内を歩く。
すぐに飽きてしまって、足は自然と――図書室に向かっていた。
ガラス戸を押す。
ぎ、と軋む音。
「開いてる」
ちょっと意外だった。
扉の隙間に身体を滑り込ませると、嗅ぎ慣れたインクの匂い。
本はいい。
いつもわたしを、出迎えてくれる。
「おや」
うれしくなっていた気持ちを、どこか達観したような声に揺さぶられた。
声の主は定位置でノートパソコンを開いて、重たい前髪の奥の瞳を、こちらに向けている。
「綾街一香さん。奇遇だね」
「えっと。神野先輩、ですね。こんにちは」
神野マキナと、以前に自己紹介を受けていた気がする。
どこか浮き世離れした雰囲気。
そんな風に見えたのは、ふわりとそよぐ風に、小豆色のロングスカートが踊ったからかもしれない。
「ええ、こんにちは。展示を見に来たのかしら?」
いつもは自習スペースになっているテーブルに視線を向ける。「これから迎える夏休みの読書感想文に!」という手書きのポスターと、適当に並んだ文庫本たち。
項羽と劉邦。
モモ。
変身。
「どういうラインナップなの……」
小説ばかりということはわかった。モモや変身は教科書で読んだ。わたし好みだ。
もしや。どんなことを話したことがあるのは、しらせ先パイしかいない。
「そこはあの子が、君のことを考えながら並べたあたりだね」
「しらせ先パイが?」
やっぱり。わたしホイホイというわけだ。
「君を釣るなら、活字さえあれば何だっていいのではないかしら? なんなら、ソースのボトルに書かれた成分表だって、セーターの洗濯タグだって」
「いやですね、神野先輩。そのとおりです」
どきっとした。
心を読まれたみたいに、思っていたことを言い当てられたんだから。
「くふふ。君の待ち人は、ここにいればすぐ会えるよ」
また、わたしのほしい答えを言い当てられる。
「そんなにわたしって、顔に出ていますか?」
「わたくしにとっては、この程度の読心術などお手の物ということよ。ああ、ほら。来たわ」
神野先輩が指さす先。
のんびりとした足取りで、だけどどこから寂しそうで――わたしを見つけて、大型犬が千切れるくらいに尻尾をふるかのようなキラキラ感で、しらせ先輩が走ってきた。
「綾街! ここにいたの?」
「はい。なんとなく……だめですよ、先パイ。いくらわたしがいるからって、廊下を走っては」
「へへ。ごめんごめん」
照れ笑いみたいなものを浮かべてから、先パイはしげしげとわたしの全身を眺め始めて、
「Tシャツでも、胸元が落ち着いてていいね。ちゃんと着けられてるよ」
いきなり下着の着用チェックが入っていたようだ。
「どこ見てるんですか」
そっと、自分の身体を抱きしめるように胸元を隠して、視線を流してみる。
う、と言葉に詰まった先パイが、アンダーリムの奥で目を細めた。
背後から、クスクスという笑い。神野先輩だろうか。
とりあえず、そっちは無視する。
「今日はおしゃれ眼鏡なんですね」
「うん。綾街を捕まえたら、デートできるしね」
「もう。先パイってば。他にお友達はいないんですか?」
「より優先すべきことがあればそっちに行くよ」
「先パイにとって優先すべき、なんですね。わたしって」
「そりゃあね……」
照れくさそうに笑うその反応を見るに、わたしのことを厄介な後輩というわけではなく、面倒を見るべき対象だと定義したのかもしれない。
それもそうだろう。文化祭をひとりで歩ける子。危うくてしょうがないだろうに。
「じゃあ、まずは先パイ。朗読劇に行きましょう」
「ん、了解。……今の時間は、ほかの子が演奏するの?」
「演奏はわたしですけど、でも、収録済みですよ」
「えっ。生演奏じゃないの?」
「生演奏なんて、誰も言ってないですよ」
じゃあ、と。先パイはちょっとだけ躊躇して、
「私も夕方までひとりなんだけどさ。このまま時間まで、デートしない?」
なるほど。デート、という言葉の前にワンクッション。その単語を意識させたいんだろう。
たーん! と神野先輩が強くキーボードを叩く音。
廊下に響く喧噪。
先輩の、ゆずの香る吐息。
「しょうがないなあ」
だから。
断る理由なんかないから。
「一日、付き合ってあげますよ」
ちょっとだけ偉そうに、答えてあげた。
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