第9話 扇の内側にあったもの
その侍女に気づいたのは、翌朝の食堂でだった。
隅の卓に、一人で座っている。旅装だが仕立てがいい。宿場町の女ではない。そして、パンをちぎる手つきに見覚えがあった。
ロズリーヌ。セレネ様付きの侍女だ。三年、王宮の廊下で何度もすれ違っている。向こうもこちらに気づいた。逃げなかった。逃げる場所がないと分かったのだろう。わたくしは向かいに腰を下ろした。
「おはようございます」
リヴァンヌ語で言った。ロズリーヌは短く息を吸って、それから同じ言葉で返した。
「……おはようございます、王女殿下」
「一人でお発ちに」
「先に王都へ戻る役目でございます」
嘘だ、と思った。王都は東で、この町は西である。戻るなら昨日のうちに川を渡っている。
けれど、それは指摘しなかった。
「ロズリーヌ。ひとつ伺ってよろしい?」
「……はい」
「セレネ様の扇のことです」
その名前を出した瞬間、ロズリーヌの手が止まった。パンの欠片が皿に落ちた。
「あの方は、屋内でも扇をお持ちです。冬でもお持ちです。あれはご趣味でいらっしゃるの?」
「……お寒がりでいらっしゃいますので」
「夏もお持ちでした」
ロズリーヌは黙った。
わたくしは急がなかった。この人は、いま自分が何を守っているのかを、たぶん自分でも整理できていない。
「わたくしはもう国を出た者です。あなたが何を仰っても、王宮へは戻せません」
「……戻せなくても、伝わります」
「誰に」
ロズリーヌが顔を上げた。目が赤い。眠っていない顔だ。
「王女殿下。あの方は、殿下がお読みになるのをご存じでした」
「読む」
「お口を。……唇を、でございます」
わたくしは、椅子の上で動けなくなった。
「三年前、殿下がいらしてすぐの頃です。広間の端で、殿下が誰かのお言葉を書き取っておいででした。声の届かない距離でございました。あの方はそれをご覧になって、翌日から扇をお持ちになりました」
「……わたくしは、読めるつもりはございません」
「お読みになれます」
ロズリーヌは静かに言った。
「わたくしどもは、殿下が唇をご覧になる癖に、みな気づいておりました。話しかけられると、必ず口元をご覧になります。目ではなく口を。あれは、この国の作法ではございません」
わたくしは自分の膝を見た。
言われてみれば、そうだ。六歳の頃、教師に何度も言われた。音は口の形の後から来る。口を先に見なさい、と。
あれは通詞の稽古だと思っていた。十三年やって癖になった。癖になっているのだから、王宮の誰かが気づいても不思議はない。
むしろ、気づかれない方がおかしかったのだ。宮廷というのは人の癖を数えて暮らす場所である。誰が誰の顔色を先に見るか、誰が扉のどちら側を歩くか。そういうものを覚えて、いざというときに使う。わたくしの癖も当然のように数えられていた。数えて、対策を打った人がいた。それだけの話である。
三年、わたくしはあの扇を趣味だと思っていた。趣味だと思って、それ以上考えなかった。人の癖を数える場所にいながら、数えられている側だという自覚がなかった。
気づいた上で、扇を上げ続けた人がいた。
「セレネ様は、三年間ずっと、わたくしから口を隠しておいででした」
「はい」
「昨日、茶会で一度だけ扇をお閉じになりました」
「……あのときは、殿下を追い詰めておいででしたので」
勝ったと思ったから、隠す必要がなくなった。
わたくしは短く息を吐いた。腹が立ったのではない。むしろ、筋が通ったことに安堵していた。三年、あの扇が何なのか分からなかった。分からないものが一つ減った。
「ロズリーヌ。もうひとつ伺います」
「……はい」
「殿下のお耳に入る言葉が、途中で別のものに変わります。あれは、セレネ様がお考えになったものですか」
ロズリーヌは首を振った。首を振ってから、自分が振ったことに気づいたという顔をした。
「……あの方は、買っておいでです。ご自分でお作りになれるものではございません」
「どなたから」
「存じません。わたくしどもに見えますのは、金子の出どころだけでございます」
わたくしは、それ以上は聞かなかった。この人は知らないことを知らないと言った。三年、王宮でそれを聞いたのは二度目である。一度目は、リヴァンヌ語を三度落ちたと言った人だ。
「ロズリーヌ」
「はい」
「あなたは、なぜそれを話してくださったの」
ロズリーヌはしばらく答えなかった。
「……昨日の夜、あの方に叱られました。関所の書付のことでございます」
「あなたがお書きになったのですね」
ロズリーヌの肩が震えた。
「印だけお預かりして、文はわたくしが書きました。公文の書き方など習っておりません。三日で戻れと言われて、書いて、早馬に持たせました。……差し止めよ、と書くのだと、教えていただければ書きました」
わたくしは何も言わなかった。
この人は、書けと言われて書いた。書き方を教えられないまま書かされて、失敗して、叱られた。それだけのことである。
「ロズリーヌ。あなたが書いた文は、関所の役人殿が二度お読みになりました。わたくしは訳しておりません」
「……はい」
「二度読んで、あの方はご自分で気づかれました。あなたの文が下手だったからではございません。あなたが公文を習っていないという、ただそれだけのことが、あの紙に出ていたのです」
ロズリーヌは、目を伏せたまま小さくうなずいた。
わたくしは席を立った。戸口で振り返ると、この人はまだ座っていた。皿のパンには手をつけていない。
外へ出ると、ヴァンサン卿が馬に鞍を置いているところだった。
「あの侍女、後をつけますか」
「いいえ」
「よろしいので」
「あの方は、もう誰にも報せません」
わたくしは馬車に乗った。今日の昼過ぎには、次の宿場に着く。
そこにセレネ様がいることを、わたくしはまだ知らなかった。
【通詞の覚え】人が何を隠しているかは、隠し方に出ます。三年おなじ物を持ち続けるのは、趣味ではなく用心でございます。
お読みいただき、ありがとうございました。
次話――宿の広間で、あの方がお待ちでした。今度は扇をお持ちではありません。




