第10話 セレネ様、ご自分のお言葉でどうぞ
次の宿場の広間に、セレネ様が座っておられた。
旅装ではない。王宮にいらしたときと同じ、絹の上着に髪を結い上げた姿である。この町の宿には不釣り合いで、それを承知でそうしていらっしゃる。
そして、扇をお持ちでなかった。
「王女殿下。お待ちしておりましたわ」
わたくしは足を止めた。ヴァンサン卿が半歩前に出るのを、手で制した。
「セレネ様。国境はもう越えました」
「存じております。ですから参りましたの」
その方は立ち上がり、広間の中央へ出てこられた。宿の客が七、八人いる。半分は商人で、両方の言葉を解する者たちだ。
「殿下がお持ち帰りになる帳面のことでございます。あれは、リヴァンヌの宮廷で交わされたお言葉の控えでしょう。他国へ出してよいものではございません」
「わたくしは王女の随員として控えました。国へ持ち帰るのが役目でございます」
「随員はもうおりませんでしょう」
上手い。この方はいつも上手い。
「王女殿下。お渡しくださいませ」
わたくしは動かなかった。
この場でわたくしにできることは限られている。帳面を渡さない。それだけだ。渡さなければ、あの方はいずれ手を尽くす。今日でなくても、明日でなくても。
――なら、次は相手に喋らせればいい。
六日前、部屋の窓辺でそう思いついた。思いついて、指先が冷えた。相手の言葉を引き出すのは通詞の仕事ではないと思ったからだ。
いまも、そう思っている。
思っているが、この方はすでに、わたくしの三年ぶんを燃やしに来ている。
「セレネ様」
わたくしは一歩前へ出た。
「お渡しいたします」
その方の眉が、わずかに動いた。
「ただ、条件がございます。この広間の皆さまの前で、あなたが何をお求めか、リヴァンヌ語で一度だけ仰ってくださいませ。わたくしは帳面を差し出し、あなたはそれをお受け取りになる。そのやりとりを、この町の方に見ていただきます」
「なぜ、そのような」
「他国の王女から書き物を取り上げるのでございます。証人がいた方が、あなたのためになりましょう」
筋は通っている。
通っているから、断りにくい。
セレネ様は広間を見回された。商人たちがこちらを見ている。ここで断れば、この方は「こっそり取り上げに来た」ことになる。
「……よろしゅうございます」
その方はまっすぐに立ち、リヴァンヌ語で言われた。
――ヴェルネのシャルロット王女。その帳面を、こちらへお渡しなさい。あなたの書いたものは、この国の外へは出せません。
澄んだ声だった。三年、王宮の廊下で何度も聞いた声である。わたくしは帳面を胸の前に持ち上げた。そして、渡さなかった。
「セレネ様。いまのお言葉、ヴェルネ語へ訳してもよろしゅうございますか」
「――何を」
「わたくしはヴェルネの者でございます。国内で受けた要求は、国の言葉で控えるのが習いでして」
同じことを、宴でも申し上げた。あのときこの方は止めなかった。今日は止めようとして、止め方が思いつかないという顔をしておられる。
わたくしは訳した。
――その帳面を、こちらへ渡しなさい。あなたの書いたものは、この国の外へは出せません。
広間の空気が変わった。
「……セレネ様」
商人の一人が立ち上がった。
「ここはヴェルネでございますよ。この国の外、と仰ったのは、どちらの国のことで」
セレネ様が、初めて言葉に詰まられた。
リヴァンヌ語で「この国」と言えば、話し手の国を指す。あの方はリヴァンヌにいるつもりで喋った。国境を越えたのは、わたくしだけではない。
「わたくしは、リヴァンヌの、」
「セレネ様。ご自分のお言葉でどうぞ」
その方の口が動いた。
扇はない。
わたくしは、その口を見た。三年間見ることのできなかったものが、いま何の遮りもなくそこにある。
あの方は、こう言いかけて、やめた。
――マルレク先生に、報せなければ。
声にはならなかった。声にならなかったから、この広間の誰にも聞こえていない。
わたくしにだけ、見えた。
商人たちがざわめきはじめた。他国の役人が国境を越えて書き物を取り上げに来た――そう伝われば、この町の商いに障る。セレネ様はそれを察して、身を引かれた。
「……失礼をいたしました。人違いでございましたようで」
広間を出ていかれるとき、その方は一度もこちらをご覧にならなかった。背筋はまっすぐだった。最後まで、崩れた歩き方はなさらなかった。
わたくしは帳面を胸に抱えたまま、しばらく立っていた。
商人たちが席へ戻っていく。宿の主人が何事もなかったように酒を運びはじめた。この広間で起きたことは、たぶん明日には別の形で語られる。他国の役人が来て、揉めて、帰った。その程度に畳まれて、三日もすれば誰も覚えていない。
わたくしがやったのは、あの方の言葉を一度だけ、この国の言葉に置き換えたことである。置き換えた途端に、あの方の足元が国境の向こう側にあることが露わになった。嘘を暴いたのでも、言い負かしたのでもない。位置がずれていたのを、そのまま見えるようにしただけだ。
勝った気はしなかった。あの方が最後に言いかけた名前が、頭の中で鳴っている。マルレク。
六歳の春から、窓のない部屋で、わたくしに紙を二枚並べて見せた人の名前だ。
思い出せなかったのではない。思い出さないように書いてこなかったのだと、いま分かった。十三年ぶんの帳面のどこにも、わたくしはその名前を書いていない。
【通詞の覚え】口を隠す人がいたら、隠しているのは言葉ではなく、言い間違えたときの顔でございます。
第一章ぶん、お付き合いくださりありがとうございます。扇の件は第三話から置いてありました。
次話――国境から王都まで四日でございます。三年ぶりの城で、父が最初に仰ったのは「なぜ帰った」でした。




