第8話 宿場町の娘は、二つ目の「愛している」を聞いた
翌日の昼、川を離れて宿場町に入った。
ヴェルネ側の町だが、国境が近いので両方の言葉が飛び交っている。市が立っていて、荷馬車の間を人が抜けていく。
こういう町の言葉は面白い。売り手はリヴァンヌ語で値を言い、買い手はヴェルネ語で値切る。どちらも相手の言葉を半分しか解さないのに、商いは成立している。数だけは共通だからだ。数と、指の本数と、金の重さ。
言葉が要るのは、そこから先である。相手が何を思っているかを知りたくなった瞬間に、初めて訳が要る。市の人々はそれを知りたがらない。だから困っていない。
馬を替えるあいだ、わたくしは宿の土間で待っていた。そこに、若い娘が一人座っていた。
十六か十七だろう。宿の娘らしく前掛けをしている。そして、泣いていた。
声を立てずに、椅子に座ったまま、両手を膝に置いて泣いていた。
「どうかなさいましたか」
わたくしがヴェルネ語で尋ねると、娘は顔を上げた。
「……あの人が、明日には発つと言うんです」
「お相手は、この町の方ではないのですね」
「リヴァンヌの商人さんです。半月ここに泊まっていて、わたしに、愛していると」
娘はそこで言葉を切って、それから続けた。
「なのに、連れていけないと言うんです。愛しているのに、連れていけないって。おかしいでしょう」
わたくしは椅子を引いて、その隣に座った。
「その方は、リヴァンヌ語でそう仰いましたか」
「はい。……わたし、少しなら分かるんです。市で覚えたので」
「なんと仰ったか、そのまま言えますか」
娘は、言った。
わたくしは、その一言を聞いた。
リヴァンヌ語で愛を言う言い方は二つある。ひとつは、相手を自分の側に置くという形の言い方だ。所有に近い。もうひとつは、こちらから相手へ何かを渡すという形の言い方で、贈るという動詞と同じ活用をする。
商人が使ったのは、前者だった。
「そのお言葉は」
わたくしはそこで止まった。
説明することはできる。この語は所有の形で、もうひとつ別の言い方がある、と。けれど、それを聞いてこの娘がどうなるのか。半月ぶんの言葉が全部、一夜で意味を変える。
訳すというのは、そういうことだ。
わたくしは三年、それを人にやってきた。やられる側になったことは一度もなかった。
「……お嬢さん」
結局、わたくしは違うことを聞いた。
「その方は、あなたの名前を、どう呼んでおいでですか」
娘は目を瞬いた。
「名前……ですか。呼びません。いつも、お前、と」
「半月のあいだ、一度も」
「一度も、ないです」
娘の手が、前掛けの上で止まった。
わたくしは何も訳さなかった。ひとつも訳していない。ただ、この娘がすでに知っていて、まだ言葉にしていなかったことを、聞いただけだ。
しばらくして、娘は前掛けで顔を拭いた。
「……行かせます」
「はい」
「引き止めたら、たぶん、わたしが自分に嘘をつくことになるので」
その言い方が、この年の娘のものとは思えなかった。人は自分のことなら、案外きちんと分かっている。分かっていて言えないだけだ。
立ち上がるとき、娘が小さく頭を下げた。名前は聞かなかった。聞けば覚えてしまうし、覚えれば、この先この町を通るたびに探すことになる。旅の途中でできることには限りがある。
土間を出ると、ヴァンサン卿が戸口の柱にもたれていた。
「聞いておいででしたか」
「意味は分かりません」
「ヴェルネ語で話しておりました」
「……では、聞いておりました」
この人は視線を外して、市の方を見た。
「殿下は、訳されませんでしたね」
「訳す必要がございませんでした」
「そうですか」
「あの娘は、答えを持っておりました。わたくしが訳せば、それはわたくしが決めたことになります。決めるのはあの娘です」
ヴァンサン卿は柱から背を離した。
「そこは、宴のときと違いますね」
「宴では、殿下ご自身が原語を口にされました。あの場に原語がありましたので、訳が要ったのです」
言いながら、わたくしはひとつのことに気づいていた。
訳し返しが効くのは、相手が嘘を自分の口で吐いた瞬間だけだ。嘘をつかれている側に向けて訳しても、効かない。効くどころか、こちらが加害者になる。
半月のあいだ、あの娘の耳の中では、商人の言葉がずっと都合よく響いていた。都合よく響かせていたのは商人ではなく、たぶん娘自身だ。
――では、殿下の耳の中で言葉を変えていたのは、誰だったのか。
殿下の周りにいたのはセレネ様だけではない。侍従長も記録官も文官もいた。その全員が三年のあいだ何も言わなかった。言わなかったのは気づかなかったからか。それとも気づいて黙っていたのか。娘の耳と殿下の耳は同じ形をしている。違うのは周りの人数だけである。
市の喧騒の向こうで、荷馬車が動き出す音がした。
わたくしは帳面を開き、リヴァンヌ語の愛の語を二つ、並べて書いた。左に所有の形、右に贈る形。三年間、この二つを並べて書いたことは一度もなかった。並べる必要がなかったからだ。
殿下は、わたくしにどちらを使ったことがあっただろうか。
思い出そうとして、思い出せるものが一つもないことに気づいた。
【通詞の覚え】訳すべきかどうか迷ったら、その訳が誰の決断を奪うかを考えます。奪うなら、訳しません。
リヴァンヌ語に愛の語が二つある設定は、この先で一度だけ効きます。覚えていなくても大丈夫です。
次話――同じ宿に、リヴァンヌの侍女が一人泊まっております。あの方が扇を手放さない理由を、明日わたくしは知ります。




