第7話 声は聞こえる、と彼は言う
追手に気づいたのは、川沿いの道へ入って二刻ほど経った頃だった。
気づいたのはわたくしではない。馬車の前を行くヴァンサン卿が、片手を上げて全体を止めた。
「殿下。窓をお閉めください」
「何かございましたか」
「後ろに四騎。半刻前から距離が変わりません」
わたくしは窓の隙間から後ろを見た。木立の切れ目に、たしかに影が見える。距離は遠い。
「関所の兵でしょうか」
「兵は隊で動きます。あれは四騎で、隊列を組んでおりません。それに、いちばん後ろの一騎だけ馬が違います」
道は川に沿って細くなり、右手が崖になった。逃げ場がない。ヴァンサン卿は速度を落とさせて、部下の二人を後ろへ回した。
四騎が近づいてきた。
止まった。
わたくしは息を詰めて待った。何か言われれば訳せる。言い分があるなら、それを聞き取って、必要なら訳し返せる。三年ぶんの帳面はそのためにある。
四騎は、何も言わなかった。
一言も発しないまま、こちらを見ていた。それから先頭の一人が手綱を引いて、道の脇へ寄った。残りもそれに倣った。道を譲る形である。
「進みます」
ヴァンサン卿が短く言った。馬車が動き出す。四騎の横をすり抜けるとき、わたくしは窓越しに彼らの顔を見た。誰も、こちらを見ていなかった。
通り過ぎてから、後ろの二騎がついてきた。
ついてくるのに、何も言わない。
わたくしは膝の上で帳面を握っていた。開いても、書くものがない。この人たちは一言も喋らないのだから、書き取るものが存在しない。
三年のあいだ、わたくしはこういう場面を一度も経験しなかった。宮廷では誰もが喋る。喋りすぎるくらい喋って、その言葉の中に刃を隠す。だからわたくしの仕事があった。隠された刃を見つけて、控えて、必要なら並べ直す。
言葉の外側にいる人間を、わたくしは扱えない。
馬車の揺れに合わせて、帳面の角が膝に当たっていた。三年ぶんの重さがある。その重さが、今日はまったく役に立たない。
夕方、川が広くなったところで、四騎は消えた。曲がり角の先で、いつのまにか居なくなっていた。
その晩は、川べりの小さな宿に泊まった。宿というより、渡し場の番小屋に部屋が二つあるだけの建物だ。壁は板で、風が入る。夕食は麦の粥と塩漬けの魚が少しだった。
三年、わたくしは銀の器で食事をしていた。器の重さと中身の量は関係がない。あちらでは毎晩、食べきれない量が出て、残りは下げられていった。ここでは椀の底が見える。見えるところまで食べて、それで終わりである。
どちらがよいという話ではない。ただ、椀の底が見えるというのは、それだけで一日の始末がついた感じがする。
夕食のあと、わたくしは外へ出た。ヴァンサン卿が馬の脚を見ていた。
「アシェ卿」
「はい」
「今日は、わたくしは何もできませんでした」
この人は顔を上げた。
「四騎は一言も喋りませんでした。喋らない相手に、わたくしは何もできません。訳すものがないのですから」
言いながら、自分の声が細くなっているのが分かった。
三日前、宴で訳し返して、あれで何かが変わったような気がしていた。関所も抜けた。役人にも通じた。それで、自分が使える人間になったつもりでいた。
今日、四騎は黙っているだけでわたくしを無力にした。
「殿下」
ヴァンサン卿は蹄を下ろして、布で手を拭いた。
「言葉が分からなくても、声は聞こえます。それと同じで、喋らなくても、あれは何か言っております」
「何を、でございますか」
「見た、ということです」
わたくしは顔を上げた。
「あの四騎は、こちらを止めに来たのではありません。止めるつもりなら、崖のところで前へ回ります。あそこは逃げ場がありませんでしたから。回らずに道を譲って、ついてきて、消えました。あれは、こちらが本当にこの道を通ったかを確かめに来ただけです」
「……確かめて、どうするのでしょう」
「王都へ戻って報せます。ヴェルネの王女は川沿いの道を通った、と。誰かがそれを知りたがっております」
夜の川は音だけがした。水の音は、どちらの国でも同じだ。名前を持たない音というものが、この世にはいくつかある。犬の鳴き声も、赤子の泣き声も、国境をまたいでも同じ形で届く。人の言葉だけが、越えるたびに一枚ずつ皮を被る。
わたくしはその皮を剥ぐ稽古を十三年した。剥ぐ相手がいなければ、稽古そのものが宙に浮く。
「殿下。ひとつ申し上げてよろしいですか」
「はい」
「今日、殿下が何もなさらなかったのは、正しゅうございます」
わたくしはこの人を見た。
「訳すものが無いのに訳す者を、自分は信用いたしません。無いときに無いと言える人の訳だから、有るときに信じられるのです」
部屋に戻って、帳面を開いた。今日の日付を書いて、そのあとが続かなかった。
しばらく考えて、一行だけ書いた。
――四騎、無言。
訳は付けようがない。それでも、書いた。書かなければ、今日は無かったことになる。
窓の外で、渡し舟の綱が軋んでいた。誰かが夜のうちに川を渡るのだろう。行くのか、戻るのか、音では分からなかった。
【通詞の覚え】相手が黙っているときに何かを訳したくなったら、それはもう訳ではありません。こちらの推し量りでございます。
何もできない回というのを、一度は書いておきたく存じました。
次話――次の宿場で、若い娘が一人、妙な聞き違いをしております。わたくしはその聞き違いに、覚えがございます。




