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魅了に囚われた婚約者を置いて、王女のわたくしは護衛騎士と祖国へ戻ります  作者: 九条かなで


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第6話 関所の書付は、二枚あって一枚多い

リヴァンヌとヴェルネの国境でございます。ここを越えれば、もう殿下のお声は届きません。

 国境の関所は、峠を下りきったところにある。石造りの詰所と、跳ね上げ式の柵が一本。それだけの場所に、兵が十二人もいた。


 多い、と思った。三年前に通ったときは四人だった。


 あのときのわたくしは十六で、馬車の窓から柵を見上げて、この先が自分の国ではなくなるのだと思っていた。輿入れの行列だったから、関所は形だけ改めて通した。役人が書付を開きもしなかったのを覚えている。開かない書付を持って国境を越えるというのは、要するに、こちらが誰であるかを疑われていないということだ。


 いま、同じ柵の前で、書付は開かれる。三年ぶんの答えが、その一動作に出ている。


 柵の向こうの木立は、季節が違うので色も違った。行きは春で、帰りは秋である。


 馬車が止まると、詰所から役人が出てきた。中年の、灰色の外套を着た男だ。書付を、と手を出す。わたくしは王宮で受け取った通行の書付を渡した。


 役人はそれを開き、それから懐からもう一枚出して、二枚を並べた。


「二枚ございますな」


「わたくしがお渡ししたのは一枚でございます」


「もう一枚は、今朝ここへ届きました。王都から早馬で」


 嫌な予感がした。


 役人は二枚目を読み上げた。リヴァンヌ語である。ヴェルネの王女一行については、確認が済むまで通行を差し止めること――そういう文だった。


「差し止めとございますので、しばらく詰所でお待ちいただきます」


「その書付、もう一度読んでいただけますか」


 役人は面倒そうな顔をしたが、二枚目をまた読んだ。同じ文である。


 わたくしは聞きながら、指を数えていた。


「役人殿。いま『差し止めること』とお読みになった箇所ですが、そこは『差し止めよ』ではございませんか」


「同じでしょう」


「同じではございません」


 わたくしは馬車の縁に手を掛けた。


「リヴァンヌの公文では、命令は言い切りの形しか使いません。差し止めよ、と書きます。差し止めること、という形は、覚え書きや私信で使う言い方でございます。三年ぶん、王宮の書付を控えて参りました。言い切りでない公文は一枚もございませんでした」


 役人の指が、紙の上で止まった。


「……ですが、印はございます」


「印は本物でございましょう。書いた者が公文を書いたことのない人なのです」


 役人はもう一度、二枚を並べた。一枚目は王宮の書記官が書いたもので、二枚目は誰かが印だけ借りて書いたものだ。並べれば、文字の傾きまで違う。


「役人殿。ご自分でお読みになったのは、いまお二度目でございます。わたくしは訳しておりません。読んだのは役人殿で、聞いたのも役人殿です」


 わたくしは一歩下がった。ここから先は、この人が自分で決める場所である。


 役人は長いあいだ二枚目を見ていた。


 この人は毎日、何十枚と書付を見ている。公文の格を知らないはずがない。知っていて、今朝は気づかなかった。早馬で来たというだけで、中身を疑う手順が飛んだのだ。急いで届いた紙は正しいものだと、人はどうしてか思ってしまう。


 わたくしは何も足さなかった。足せば、こちらの言い分になる。役人殿の目の前にあるのは二枚の紙で、その二枚は、わたくしが何も言わなくても違っている。


 それから、この人は詰所の方を振り返って、部下に何か言った。


 ――こっちは受け取らなかったことにしろ。


 柵が上がった。


「お通りください。……失礼をいたしました」


「いいえ。よくお読みくださいました」


 馬車に戻ると、ヴァンサン卿が馬を寄せてきた。


「通りましたね」


「役人殿が通してくださいました」


「何をなさいました」


「何も。二度読んでいただいただけでございます」


 ヴァンサン卿は少しのあいだ黙って、それから言った。


「殿下。あの早馬の馬ですが」


「馬」


「詰所の裏に繋がれておりました。鞍の下の布に王宮の紋が入っております。近衛の馬ではありません。あれは侍女頭付きの厩から出る馬でして」


 わたくしは柵の向こうを見た。もう詰所は木立に隠れて見えない。


「なぜ、そこまでご覧になるのです」


「馬を見るのは癖でして」


 この人はそれきり、その話をしなかった。


 馬の話を癖だと言う人が、鞍の下の布まで見ている。癖という言葉は便利だ。中身を説明せずに済むし、相手にそれ以上聞かせない。わたくしも口元を見る癖があるらしい。癖だと言われれば、たしかにそのとおりである。


 柵を越えて半刻ほど走ったところで、道が二股になる。左が街道で、右は川沿いの古い道だ。ヴァンサン卿は右を選んだ。


「街道の方が早うございましょう」


「早いです。ですが、早い道は追う側も知っております」


 わたくしはうなずいて、帳面を開いた。今日の分に、二枚目の書付の文をそのまま書き取った。訳は付けない。それから、末尾に一行だけ足した。


 ――この文を書いた人は、公文を書いたことがない。


 誰が書いたのかは、書かなかった。書けば、それはわたくしの言葉になる。


 窓の外で、川が光っていた。ここから先はもうリヴァンヌの領内ではない。三年ぶりに、わたくしは自分の国の川を見ている。


 それなのに、指はまだ冷たかった。

【通詞の覚え】文書を疑うときは、まず書いた人の癖を見ます。嘘は中身より先に、文の格に出ます。


公文の言い切り形の話は、実在の外交文書の作法を少しだけ借りております。


次話――追手がまいります。相手は一言も喋りません。わたくしの出番は、この話にはございません。

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