第5話 訳してください、と騎士は言った
出立の朝は晴れていた。東門に馬車が一台、護衛が三騎。荷は二日前に発たせてある。見送りは、王妃陛下の名代の侍従が一人だけだった。
殿下はいらっしゃらなかった。
門をくぐる直前、後ろで声がした。
「王女殿下」
セレネ様が立っておられた。今日も扇をお持ちである。
「道中、お気をつけて」
「ご丁寧に」
わたくしが頭を下げると、その方は扇を口元に当てられた。そのまま、リヴァンヌ語で短く仰った。
――帳面は、燃やしてお帰りになって。
わたくしは答えなかった。馬車に乗り、扉が閉まって、車輪が動き出す。窓の外でセレネ様の姿が小さくなっていったが、扇は最後まで下ろされなかった。
街道は、王都を出ると急に細くなる。馬車は右に寄って走り、石畳が途切れて土の道に変わると、揺れ方まで変わった。
三年前、わたくしはこの道を逆向きに通っている。あのときは馬車が四台で、侍女が六人ついていた。帰りは一台で、侍女は一人もいない。ヴェルネから来た三人は去年のうちに国へ帰されている。
三人が帰されたときの理由を、わたくしは覚えている。この国の言葉を解さない者が王太子の周りにいるのは体面に関わる、という説明だった。もっともらしく聞こえたので、わたくしはうなずいてしまった。いま思えば、あれは体面の話ではない。わたくしの周りから、わたくしの母語で喋る人間を一人ずつ減らしていく手順だったのだろう。
最後に残ったのがわたくし自身で、その最後の一人も、今日この道を走っている。
昼過ぎ、最初の宿場で馬を替えた。わたくしが降りると、宿の主人がヴァンサン卿へ向かって何か言った。
――ヴェルネの馬は、この先の坂を登れんぞ。
ヴァンサン卿は主人を見て、それからこちらを見た。目が合った。この人は何も言わず、ただこちらを見ていた。
わたくしは口を開いた。
「この先の坂を、ヴェルネの馬では登れないだろう、と」
「なるほど」
ヴァンサン卿は主人に向き直り、ヴェルネ語で答えた。
「登れます」
主人には通じない。通じないまま、この人は言い切った。主人は肩をすくめて中へ入っていった。
「アシェ卿」
「はい」
「通じておりませんでした」
「承知しております。あれは自分の馬の話でございますので、自分が答えるのが筋です。通じるかどうかは、そのあとの話でして」
筋、という言葉を、この人は当たり前に使う。
「アシェ卿。お着きになった晩、中庭で東屋の柱をご覧になっておいででしたね」
「見ておいででしたか」
「窓から」
「人の立てる場所を数えておりました」
この人は手綱を持ち替えた。
「あの東屋は柱が三本ございます。柱の陰は、広間の窓からも回廊からも見えません。あの宮で、人が誰にも見られずに立てる場所は三つでございました。東屋の柱の陰と、厨房の裏と、西の階段の下でして」
わたくしは馬車の窓枠に手を置いた。
八日前、わたくしはその柱の陰に立っていた。誰にも見られていないつもりだった。見られていなかったのは、たぶん本当である。ただ、見られずに立てる場所の方は、着いた晩のうちに数えられていた。
夕方、峠の手前で二度目の休みを取った。道の脇に石を積んだ塚がある。リヴァンヌの国境近くにはこういうものが多い。旅の途中で死んだ者を埋めた印だ。
この国では、埋めた場所に必ず文字を残す。ヴェルネでは名前だけを彫って、あとは花を置く。同じ土の下に同じように人が入っているのに、上に載せるものが違うというだけで、旅人はどちらの国にいるかが分かる。
三年前にこの道を通ったとき、わたくしは塚を数えていた。二十七あった。数えたのは退屈だったからではなく、ひとつずつ読むだけの言葉を、あのときはもう持っていたからだ。
ヴァンサン卿が塚の前で足を止めた。石の上に板が一枚立ててあって、文字が彫ってある。この人はしばらくそれを見ていた。
それから、こちらへ来た。
「王女殿下」
「はい」
「訳してください」
わたくしはその言葉を、頭の中で三度繰り返した。
三年リヴァンヌにいて、訳せと命じられたことは何度もある。訳すなと言われたこともある。異国の言葉で作り話をするなと言われたのは四日前だ。
訳してください、と頼まれたのは初めてだった。
「……あの板でございますか」
「はい。読めませんので」
わたくしは塚の前に膝をついた。板の文字は雨で薄くなっていて、指でなぞりながら読んだ。
「名前と、年と、それから一行ございます。――『この者は道を知っていた。連れていた者が知らなかっただけだ』」
ヴァンサン卿はしばらく板を見ていた。
「厳しいことを書きますね」
「よくある文句でございます。旅の途中で死んだ者を悼むとき、案内人を責めるのがこの国の書き方でして」
「ヴェルネでは書きませんね」
「書きません。ヴェルネでは、死んだ者の側に落ち度がなかったことだけを書きます」
「どちらが正しいのでしょう」
「どちらも正しくございません」
言ってから、自分でも少し驚いた。
「どちらの文も、死んだ者には届きませんので。届かない文の作法が国ごとに違うというだけのことでございます」
ヴァンサン卿がこちらを見た。
「殿下」
「はい」
「これから読めないものが出てまいりましたら、その都度お願いしてよろしいですか」
「……なぜ、わたくしに」
「ほかに読める者がおりませんので」
当たり前のことを、この人は当たり前に言った。
この王宮で三年、わたくしの訳は確かめようのないものとして扱われた。確かめられないから信じない、と皆が言った。この人は、確かめられないから頼む、と言っている。同じ事実の、逆の側だ。
「――承知いたしました」
馬車に戻ると、日が落ちかけていた。わたくしは帳面を開いて今日の分を書いた。宿の主人の一言、塚の板の文、それから、訳してください、という一行。最後の一行だけはヴェルネ語で書いた。
国境は明日の昼に越える。
車輪が石を踏んで大きく跳ねた。窓の外では、峠の向こうの空が赤くなっている。あの色の下に、まだ見えない関所がある。
【通詞の覚え】訳せと命じる人と、訳してくださいと頼む人がおります。同じ仕事を頼まれているのに、こちらの背筋の伸び方がまるで違います。
お読みくださって感謝いたします。
次話――国境の関所です。書付を出しましたら、役人が「二枚あって一枚多い」と申しました。わたくしが出したのは一枚でございます。




