第4話 意味は分かりませんが、聞こえてはいます
迎えの馬が門に着いたのは、翌日の昼だった。
ヴェルネからの護衛は三騎で、先頭の一騎が門前で降りて片膝をついた。
「ヴェルネ王国近衛、ヴァンサン・アシェ。王女殿下のお迎えに上がりました」
背の高い男だった。年は二十四か五、日に焼けていて、髪は短く刈ってある。上等な礼装ではなく、道中の装いのまま来ていた。三日で着ける道のりではないから、たぶん夜も走らせている。
「遠いところをご苦労さまでした」
わたくしがそう申し上げると、門番のリヴァンヌ兵が横から何か言った。
――ヴェルネの馬は小さいな。
悪意というほどのものでもない。門番同士がよくやる軽口である。
ヴァンサン卿は顔を上げ、その門番をまっすぐ見た。そして、何も言わなかった。門番の方が気まずそうに目を逸らした。
中庭を歩きながら、わたくしは尋ねた。
「いまのお言葉、お分かりになりまして」
「いいえ」
即答だった。
「聞こえてはいます。意味だけが分かりません」
「習っておいでではないのですか」
「三度落ちました」
わたくしは足を止めた。
「三度」
「三度です。近衛の語学は年に一度でございますので、三年かかりました。四度目は受けておりません。上官に、お前は目で仕事をしろと言われましたので」
この人は、それを隠さずに言った。
この王宮で三年、わたくしが会った誰もしなかったことである。ここでは誰もが分かるふりをする。分からないと言えば席を失うからだ。
「では、なぜ門番の方をご覧になったのです」
「声が、こちらへ向いておりましたので」
ヴァンサン卿は前を向いたまま答えた。
「意味は分かりませんが、誰に向けて言ったかは分かります。あの男は隣の兵ではなく、こちらの馬の脚を見て喋りました。ですから馬の話です。馬の話でこちらを笑うのでしたら、答えは要りません」
わたくしはこの人の横顔を見た。耳ではなく、目で聞いている。
三年のあいだ、わたくしはこの逆をやってきた。意味は全部取れるのに、誰が誰に向けて言ったのかを取り違えることが何度もあった。この国の宮廷では、名指しをせずに人を刺す言い方が発達している。誰のことでもない形で喋って、部屋の中の一人にだけ当てるのだ。意味だけを追っていると、その一人が自分だったことに翌日気づく。
言葉が分かるというのは、たぶん、思っているほど強い持ち物ではない。
部屋に着いて、出立の日取りを詰めた。三日後の朝、東門から。護衛は三騎に王宮の馬車が一台で、荷は先に出す。
「王女殿下」
紙を畳みながら、ヴァンサン卿が言った。
「差し出がましいことを申します。この王宮は、殿下に対して丁寧ではありませんね」
「そう見えますか」
「侍女が三人こちらの前を通って、一度も膝を折りませんでした。門から玄関まで荷を持つ者が出てまいりませんでした。それに、出立の日取りを決める部屋がこの広さです」
部屋は確かに狭かった。三年前に与えられた部屋ではない。
「昨夜、宴で少し騒がせましたので」
「何をなさいました」
「殿下のお言葉を訳しました」
ヴァンサン卿は少しのあいだ黙っていた。
「訳して、何か問題が」
「訳が正しいことを、わたくし以外に証明できる者がおりませんでした」
言ってしまってから後悔した。この人に言っても仕方がない。この人はリヴァンヌ語が分からないのだから、この国でいちばんわたくしの証人になれない人である。
「殿下」
「はい」
「自分は、その訳が正しいかどうかを判じられません」
「存じております」
「ですから、判じません」
わたくしは顔を上げた。
「王女殿下が書き取ったものを読み上げた。それは自分の目の前で起きたことではございませんので、何も申し上げられません。ただ、これから道中で同じことが起きましたら、自分は見ております。誰が、誰に向けて、どういう喉で喋ったか。そこは目で分かります」
喉、とこの人は言った。
「喉、でございますか」
「はい。人は嘘を言うとき、喉の使い方が変わります。声が高くなるのではなく、息の量が減るのです。剣を抜く前の男と同じでして」
わたくしはその話を、もう少し聞いていたいと思った。喉で嘘が分かるのなら、この三年で何人ぶんの喉を見てきたのだろう。宮廷の作法は顔で嘘をつくためにあるようなもので、顔だけを見ていると何も分からない。この人はたぶん、初めて会った日の門番から、給仕から、侍従の顔ぶれまで、全部の喉を見ながら中庭を歩いていた。
外で鐘が鳴った。夕刻の鐘だ。三年、毎日聞いた音である。
「アシェ卿」
「はい」
「もうひとつ伺ってよろしいですか。あなたは七年前、ヴェルネにおいででしたか」
ヴァンサン卿の手が、紙の上で止まった。
「……おりました」
「兄の、エミールの近くに」
「近衛の見習いでございました。第一王子殿下の、馬の後ろにおりました」
それだけ言って、この人は口を閉じた。わたくしもそれ以上は聞かなかった。
夜、窓の下で足音がした。見下ろすと、中庭にヴァンサン卿が立っている。剣は佩いていない。東屋の柱を、下から順に見上げていた。
何をしているのか分からなかった。しばらくして、この人は柱の一本に手のひらを当てた。当てたまま、動かなかった。
わたくしは窓を閉めた。
机の上の帳面は、今日は一度も開いていない。明日は書くことが増えるだろう。三騎ぶんの名前と、出立の日取りと、それから、柱に手を当てて動かない人のことを。
最後のひとつを、どう書けばよいのかは分からなかった。
【通詞の覚え】語学の試験に落ちる人と、耳の悪い人は違います。前者は意味が取れないだけで、たいてい音の方はよく聞こえています。
語学の試験に三度落ちる人を、わたしは書きたかったのだと思います。
次話――出立です。国境へ向かう道の途中で、この方が初めて、わたくしに何かを頼みます。




