第3話 異国の言葉で作り話をなさらないで
翌朝、王宮の空気は前の晩と違っていた。廊下ですれ違う侍女が目を伏せ、文官が挨拶を早口で済ませて行く。宴の話が広まったのだ。それ自体は予想していた。
予想していなかったのは、広まり方の向きだった。
「ヴェルネの王女が、殿下のお言葉をご自分の都合よく訳した」
昼前に、部屋付きの侍女がその話を持ってきた。厨房で聞いたのだという。
「異国のお言葉ですもの、どうとでも訳せますでしょう、と皆さまが」
わたくしは帳面を閉じた。
反論の仕方は三つある。原語を書いた控えを見せるか、宴にいた者を証人に立てるか、両国の記録官に照合させるか。三つとも、こちらの言葉が正しいことをこちらが証明する形だ。証明を求められた時点で、もう半分は負けている。
午後、大広間へ呼ばれた。王妃陛下の主催で、女性ばかりの茶会が開かれていた。わたくしの見送りという名目である。中央にセレネ様がおられた。
「王女殿下。どうぞこちらへ」
席は用意されていた。ただ、空けてある位置が悪い。円卓の、いちばん出入口に近いところである。
「昨夜のこと、皆さまが気にしておられますの」
セレネ様が扇を開かれた。
「殿下がそんなことを仰るはずがない、と。わたくしも同じ気持ちでございますわ」
「殿下は仰いました」
「まあ。では、なぜあの場で誰も咎めませんでしたの」
「聞こえていたからでございます」
セレネ様が微笑まれた。
「聞こえていたのに、誰も咎めなかった。それは殿下が悪いことを仰らなかったからでは?」
言い方が上手い。同じ事実を、逆の側から握り直している。
「王女殿下」
別の令嬢が口を挟んだ。侯爵家の姫だ。
「失礼を承知で申しますけれど、わたくしどもはヴェルネ語を存じません。あなたが何と訳されても、確かめようがございませんの」
円卓の何人かがうなずいた。
そこだ、と思った。この方たちは嘘をついていない。本当に確かめられないのだ。そして確かめられない者にとって、わたくしの訳は「王女がそう言っている」以上のものにならない。
「でしたら」
わたくしは帳面を出した。
「原語のままお読みいたします。訳は付けません。皆さまがご自分の耳でお聞きになって、ご自分でお決めくださいませ」
円卓が静かになった。わたくしは宴の一行を、書き取ったとおりに読み上げた。
三秒ほど、誰も何も言わなかった。それからセレネ様が扇を閉じられた。
「――王女殿下。それは、あなたが書き写された文でございましょう」
「はい」
「殿下の口から出た文ではなく、あなたの帳面から出た文でございますわね」
わたくしは答えられなかった。そのとおりだからである。
書き取った時点で、それは帳面の文になる。原語のまま残しても、原語のまま残したのはわたくしだ。第三者にとって、その二つは区別がつかない。
「異国のお言葉で作り話をなさるのは、そろそろおやめになって」
セレネ様は立ち上がられた。
「四日後にはお発ちになるのでしょう。最後まで王女らしくしていらしてくださいませ」
円卓の誰も、わたくしを見送らなかった。
部屋へ戻って、窓を開けた。中庭が見える。東屋の柱が三本、いつもの位置にあった。四日前、わたくしはあの柱の陰で最初の食い違いを聞いたのだ。
帳面を机に置く。十三年ぶんのうち、この国で書いた三年ぶんが三十七冊ある。誰にも読めない三十七冊だ。
いちばん下の一冊を抜いて開いてみると、来た年の春の分だった。この国の言葉で交わされた挨拶を、意味も分からないまま音で書き取っている頁がある。わたくしは当時、聞き取りはできても言い回しの格が取れなくて、丁寧語と親しい言い方の区別を毎日まちがえていた。頁の隅に、そのたびの直しが小さく書き足してある。
直したのは、わたくしではない。字が違う。
そのことに、いままで一度も引っかからなかった。この国に着いた最初の年、誰かが毎晩わたくしの帳面を開いて直していた。侍女ではない。侍女はヴェルネ語しか書けなかった。
わたくしは自分の手を見た。
昨夜あの広間で訳が通ったのは、殿下がその場で原語を口にされたからだった。原語が空気の中にあるあいだだけ、訳は効く。一晩置いた言葉には効かない。
――なら、次は相手に喋らせればいい。
書き取るのではなく、その場で言わせて、その場で訳す。
思いついてから、指先が冷えた。それは相手の言葉を引き出す仕事であって、通詞の仕事ではないからだ。書き取る者は自分の言葉を混ぜない、と六歳のときに習った。相手に喋らせるというのは、混ぜるより悪いのではないか。
誰に習ったのだったか、やはり思い出せない。
窓の下を、侍女が二人通っていった。リヴァンヌ語で何か話していて、片方が笑った。
わたくしは扇のことを考えていた。
セレネ様は、この国の女性の中でただ一人、屋内でも扇を離さない。今日も、話しているあいだじゅう口元にあった。閉じたのは、わたくしを追い込んだあの一言のときだけである。
あのとき、あの方の口は動いていた。見えていた。見えていた、ということに、わたくしはいま気づいた。
【通詞の覚え】原語のまま読み上げても、読み上げたのがこちらであれば証拠にはなりません。証拠になるのは、相手の口から出たその瞬間だけです。
この作品には、異世界語のカタカナがほとんど出てまいりません。訳文の食い違いだけをお見せする方針で書いております。
次話――祖国から迎えが参ります。リヴァンヌ語を一言も解さない騎士が一人、馬から降りてまいります。




