第2話 では、殿下のお言葉を訳して差し上げます
送別の宴は、断ることができなかった。
両国の体面というものがあって、婚約を解いた王女を追い出したように見せてはならないのだそうだ。だから宴を開き、席を用意し、酒を注ぐ。幾日もせぬうちに発つ者のために、この国は一晩ぶんの蝋燭を使う。
わたくしが通されたのは、末席に近い場所だった。三年のあいだ座っていた席から、卓ひとつぶん下がった位置である。給仕は最初にこちらへ来て、それから上座へ回った。順番を間違えたのだと思う。この三年で覚えた順番と、今夜の順番が違うのだから、間違えたのは給仕ではなくわたくしの方だ。
殿下は上座においでで、右にセレネ・ヴァルモン様が控えておられた。侍女頭が王太子の右に座るのは本来おかしいのだけれど、卓のどこからも声は上がらなかった。
宴が半ばまで進んだところで、殿下が杯を置いて立ち上がられた。
「ヴェルネのシャルロット王女に」
ヴェルネ語だった。広間が静まる。
「三年、よく務めてくれた。国へ戻り、達者で暮らすがいい」
拍手が起きた。悪い言葉ではない。餞別として、そのまま国へ持ち帰っても差し支えのない形だ。
殿下は座り、そのまま右へ向き直って、リヴァンヌ語で短く仰った。
――この女は三年、私の時間を食っただけだ。
わたくしは卓の上で指を組んだ。
ここで泣けば、女が泣いたという話になる。ここで責めれば、他国の王女が宴を壊したという話になる。どちらも、明日には荷を積み、明後日には国境へ向かう者のすることではない。おとなしく座って、朝を待てばよい。
けれど、部屋には三年ぶんの帳面が積んである。あれを全部持って帰って、誰にも読ませないまま棚に上げるのだとしたら、わたくしはこの三年で何を書いていたことになるのか。
わたくしは立ち上がった。
「殿下」
広間の顔が一斉にこちらを向いて、セレネ様の扇が半分ほど開いた。
「ただいまのお言葉、ヴェルネ語へ訳してもよろしゅうございますか」
殿下が眉を寄せられた。
「何のことだ」
「わたくしはヴェルネの者でございます。宴のあいだ、殿下のお言葉を国へ持ち帰る役目がございますので、訳して控えるのが習いでして」
嘘は申していない。王女の随員には記録の義務があり、随員がいない以上、その役目は王女本人に残る。
「好きにしろ」
殿下は杯を取り上げられた。関心をお持ちでない。ご自分が何を仰ったかご存じないのだから、当然といえば当然である。
わたくしは帳面を開いた。
「まず、皆さまへ賜りましたお言葉から。三年、よく務めてくれた。国へ戻り、達者で暮らすがいい。――これはヴェルネ語のままでございますので、訳は要りません」
小さな笑いが起きて、場が少し緩んだ。
「次に、そのあとのお言葉でございます」
わたくしは、いま書き取ったばかりの一行を読み上げた。リヴァンヌ語で、殿下が仰ったとおりに。
広間の空気が動いた。
この場の半分はリヴァンヌの貴族である。母語を母語として聞いたのであって、訳を通してはいない。
「これをヴェルネ語に直しますと、こうなります」
わたくしは訳を口にした。この女は三年、私の時間を食っただけだ、と。
誰も笑わなかった。
「シャルロット」
殿下が立ち上がられた。顔が赤い。
「私はそんなことは言っていない」
「はい。殿下はそうお思いでいらっしゃいます」
「言っていないと言っている」
「では、いま殿下がご自分で仰った言葉を、もう一度リヴァンヌ語でお繰り返しくださいませ。わたくしが同じように控えます」
殿下は口を開いて、そして止まった。
止まったのを見て、広間の何人かが顔を見合わせた。若い文官が隣の男に何かささやき、その男は自分の耳を軽く叩いた。聞き違えた、と思ったときの仕草である。同じことをする者が、三人、四人と増えていった。
誰も、わたくしの訳を否定しなかった。否定できる者がいないからだ。原語はこの広間で一度、殿下ご自身の口から出ている。
「――殿下」
セレネ様が扇を閉じ、立ち上がられた。
「お疲れでいらっしゃいます。今宵はもう」
「セレネ」
殿下がその方を見た。ほんの一瞬だけ、目の焦点が合っていなかった。壇を下りるときの右足と同じで、三年見ていなければ気づかない種類のずれである。
わたくしはその一瞬を見た。
「殿下」
膝を折る。
「三年、ありがとうございました。控えは国へ持ち帰ります。訳は付けずに、原語のまま」
顔を上げると、殿下はまだ立っておられた。何か仰ろうとして、その言葉が出てこないという顔をしておられた。
わたくしは帳面を閉じ、広間を出た。
廊下は冷えていて、歩いているうちに指が震えているのに気づいた。怒りではない。もっと単純なもので、たぶん、間に合わなかったという悔しさだ。三日前に気づいて、三日黙っていた。そのあいだじゅう、あの方は他人の言葉を他人の声で聞かされていたことになる。
背後で扉が開いた。振り向くと、セレネ様が立っておられた。扇はもう手にない。
「よくできましたこと」
ヴェルネ語だった。
「けれど王女殿下。この国であなたのお言葉を信じる者が、明日も同じ数だけおりますかしら」
【通詞の覚え】訳し戻しが効くのは、相手が原語を口にしたその場かぎりです。一晩置けば、聞いた者の耳の方が先に直ってしまいます。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございます。
次話――セレネ様が動きます。わたくしの帳面は、明日には「異国語の作り話」と呼ばれることになります。




