第1話 「君は要らない」と殿下は仰った
六歳から隣国の言葉を仕込まれました。おかげで、殿下が何をおっしゃっているのか、わたくしにだけは分かります。
殿下が「君は要らない」と仰ったとき、広間の者は全員うなずいた。わたくしもうなずいた。異存はございません。
ただ、膝の上の帳面だけは開いたままにしておいた。
リヴァンヌ王宮の謁見の間は天井が高すぎて、声がいちど上へ昇ってから石の床に戻ってくる。この国へ来た年に気づいたことだ。聞き取るには向いているが、話す方には向いていない。壇の上から降ってきた言葉が、聞いている側の頭の後ろで鳴る。だから、この部屋で喋る人は自分の声を実際より少し大きく感じている。
王太子オスカー殿下は、その壇の上に立っておられた。婚約解消の申し渡しというものは、こういう場所でするものらしい。両国の署名がすでに入った書付が侍従の手にあって、読み上げは形式にすぎない。
「ヴェルネのシャルロット王女との婚約を、本日をもって解く」
殿下はヴェルネ語でそう仰った。わたくしの母国の言葉だ。発音はきれいだった。三年かけて練習なさったのを、わたくしは知っている。最初の年、この方は「シャルロット」の巻き舌がどうしても出せなくて、庭の池の前で二十回ほど繰り返しておられた。
わたくしは膝を折った。
「承知いたしました」
それで終わりのはずだった。殿下が壇を下りながら、後ろに控えていた誰かへ短く何か仰って、今度はそれがリヴァンヌ語だった。
「――待たせずに済む」
わたくしは顔を上げず、帳面の端にその一行を書き取った。訳は付けなかった。
同じことが三日前にもあった。中庭の東屋で、セレネ・ヴァルモン様が殿下にこう申し上げていたのだ。あの方は今日、殿下のために三度お待ちになりました――そういう意味の一文である。
リヴァンヌ語の「待つ」は、待たされた側が主語に立つ。わたくしはその形をよく覚えている。子どもの頃、その活用だけで帳面を一冊使わされたことがあるからだ。
殿下はこうお答えになった。
「三度も催促されては、たまらないな」
待った、と、催促した。同じ文から出てくる言葉ではない。
わたくしはあの日、東屋の柱の陰で指先が冷えていくのを感じていた。聞き違いだと思いたくて、翌日また同じ場所へ行った。するとセレネ様が「お疲れでしょう」と申し上げ、殿下が「休めと命じられるほど老いてはいない」とお答えになった。
言葉が、殿下の耳に入るまでのどこかで、別のものへ変わっている。
誰に言えばよいのか、三日考えた。侍従長は殿下の遠縁で、記録官はセレネ様のご実家から出ている。ヴェルネの侍女は去年のうちに国へ帰された。三日考えて、答えは出なかった。
広間の人垣が割れて、そのセレネ様が進み出ていらした。伯爵家の令嬢で、殿下付きの侍女頭を務めておいでの方だ。栗色の髪を高く結い上げ、手には扇がある。この方はいつも扇をお持ちだった。夏でも冬でも、屋内でも持っている。
「王女殿下。長いあいだ、ご苦労さまでございました」
完璧なヴェルネ語だった。わたくしに合わせてくださったのだろう。
「セレネ様も、殿下をよくお支えでいらっしゃいました」
「まあ。もったいのうございます」
扇が上がって、口元が隠れた。そのまま、リヴァンヌ語で小さく続けられた。
「――もう、聞こえない場所へお帰りになって」
広間の誰も反応しなかった。この場にリヴァンヌの貴族は三十人ほどおいでで、その全員の母語である。にもかかわらず、ひとりも眉を動かさなかった。
わたくしは日付と時刻を添えて、その一行も書き取った。訳はやはり付けない。付けてしまえば、わたくしがそう聞いたことになるからだ。原語のままなら、それは殿下の言葉であり、セレネ様の言葉である。書き取る者は自分の言葉を混ぜてはいけない――六歳のときから、そう教わってきた。
――誰に教わったのだったか。
筆を止めて、わたくしは自分の手元を見た。
思い出せなかった。六つの春に輿入れの話が決まって、翌週から言葉の稽古が始まった。教師は王宮の奥の、窓のない部屋におられた。わたくしが入っていくといつも先に座っていて、机の上に紙が二枚並べてあった。声は覚えている。書き方の癖も、紙の並べ方も覚えている。名前だけが出てこない。
十三年ぶんの帳面が、いまも部屋に積んである。あの全部を誰かの指示で書かされたのだと、この瞬間に初めて思った。
なぜ、わたくしだったのか。
ヴェルネには三つ上の姉がいて、年回りなら姉の方が近かった。それでも隣国へ送られたのは妹のわたくしで、しかも言葉の稽古が始まったのは輿入れが決まった翌週である。順序が逆ではないか。ふつうは、言葉のできる娘を選んで送るものだ。
わたくしは選ばれたのではなく、そのために作られたのかもしれない。
書付の読み上げが終わって、侍従が下がった。殿下は退出まで一度もこちらをご覧にならなかった。壇を下りるとき、右足を先に出しておられた。この方は考え事をしていると必ず右足から出る。三年見ていれば分かることだ。
わたくしは帳面を閉じた。革の表紙が、指の下でわずかに湿っていた。
【通詞の覚え】書き取るときは、訳を先に書かないこと。訳した瞬間から、それは相手の言葉ではなく、こちらの言葉になります。
はじめまして。九条かなでと申します。訳す人の話を書きます。
次話――送別の宴がございます。殿下がもう一度、同じことを仰います。今度はわたくしも、黙っておりません。




