第30話 一行目には、消された名前があった
審問の記録は、その日のうちに両国へ送られた。
ヴェルネからは記録官の名で、リヴァンヌへはギルドの書記を通じて。二つの経路で出したのは、一つが止められても、もう一つが残るようにである。
十日後、リヴァンヌの通詞ギルドから返書が来た。派遣中の十二名を全員呼び戻し、各国へ照会を出すという内容だった。
マルレクは、その前に王都を発っていた。逃げたのではない。呼び戻されたのである。
発つ朝、門のところで一度だけ会った。
「シャルロット様」
「先生」
「名簿の一行目は、まだ空いております」
わたくしは首を振った。
「書きません」
「なぜです」
「一人で立つ場所だからでございます」
この人は、少しのあいだ黙っていた。
「……そこは、教えておりませんでしたな」
「はい。ですので、自分で決めました」
マルレクは頭を下げた。稽古の終わりに、いつもそうしていたのと同じ角度だった。
馬が門を出ていくのを、わたくしは見ていた。憎めばよいのか、礼を言えばよいのか、分からないままだった。分からないものを、無理に片方へ訳す必要はない。
この人は、わたくしに嘘をひとつも教えなかった。教えなかったことが、そのままこの人の仕事の一部だった。両方とも本物である。二枚の覚書と同じで、片方を偽物にすれば済む話ではない。
並べて置いておく。読むのは、これからのわたくしだ。
執務棟の机には、その週も文書が四十枚積まれた。呼び戻しの照会が始まって、量は増えている。書記の三人では回らないので、ギルドから二人を借りることになった。
わたくしの席は、まだ窓際の隙間風の入る位置にある。動かしましょうかと責任者が言ったが、断った。ここは自分で頼んで作ってもらった席である。
その日の午後、リヴァンヌから書状が一通届いた。差出人はオスカー・ド・リヴァンヌ。宛先はわたくし個人である。わたくしは封を切らなかった。
切らずに、記録官のところへ持っていった。
「こちらを、そのままお預けいたします」
「訳は」
「付けません」
老人は何も聞かずに、束の中へ入れた。
訳す価値のあるものだけを訳す。それが仕事だ。訳さないと決めるのも、仕事のうちである。三年前のわたくしは、その作法を持っていなかった。
夕方、わたくしは執務棟の窓辺で、ギルドから借りた十六年ぶんの名簿を並べた。返したものを、もう一度借り直したのである。書記は不思議そうな顔をしたが、何も聞かずに出してくれた。
いちばん古い一冊。十六年前の写しである。一行目は空いている。わたくしはそれを、灯りに透かした。
浮いた。名前が、一つ。鉛の芯で書いて、消した跡である。六歳の子が消したのと同じ形をしていた。
わたくしは目を近づけた。字は薄い。読めたのは書き出しだけで、あとは擦れて消えていた。
わたくしの知らない名前である。マルレクではない。十六年前、あの欄には誰かが書かれていた。書かれて、消された。わたくしは名簿を閉じた。
十六年前、あの欄に書かれて消された人がいる。その人がいまどこにいるのか、生きているのかどうかも分からない。十二人の呼び戻しには、この人は入っていない。名簿に無い者は、呼び戻す側の手が届かない。
書き留めておく。日付と、透かした時刻と、読めた分だけを、原語のまま。訳は付けない。
外はもう暗い。窓の下の中庭で、誰かが馬を引いている。
「殿下」
振り返ると、ヴァンサン卿が立っていた。
「終わりましたか」
「終わりました。……この部だけは」
「そうですか」
この人は、窓の外を見た。
「殿下。ひとつ、申し上げてよろしいですか」
「はい」
「自分は、リヴァンヌ語をもう一度習おうと思います」
わたくしは顔を上げた。
「四度目でございますか」
「四度目です。三度落ちておりますので、期待はしておりません」
「なぜ、いま」
「一人でやらない、と仰いましたので」
この人は、こちらを見なかった。窓の外を見たまま続けた。
「殿下が訳したものを、確かめられる者が要ります。誰も確かめられないのでは、殿下がいちばん危ない場所に立つことになります」
わたくしは、しばらく何も言えなかった。
「……ずいぶん、遠い道でございます」
「近い道は、追う側も知っておりますので」
国境の分かれ道で聞いたのと、同じ言い方だった。
それから、この人はこちらを向いた。
「殿下。ひとつだけ、覚えた言葉がございます」
「リヴァンヌ語で」
「はい。発音は、たぶん間違っております」
この人は、その一言を口にした。発音は、確かに崩れていた。母音が一つ、後ろへずれている。けれど、選ばれていたのは、贈る方の言い方だった。
所有の形ではない。こちらから相手へ、手放して届ける形の方である。わたくしは、それを訳さなかった。訳す必要がなかったからだ。
窓の外で、馬が一度いなないた。中庭の灯りが、石畳を四角く切り取っている。
三年前、わたくしは何も持たずにあの国へ行った。持って帰ってきたのは百八冊の帳面と、確かめてくれる人が一人もいないという事実だけだった。
いまは、五人いる。
もうすぐ、六人になるかもしれない。
【通詞の覚え】訳さないと決めた紙も、控えには残します。読まなかったことと、無かったことは違いますので。
お読みいただきありがとうございます。
『魅了に囚われた婚約者を置いて、王女のわたくしは護衛騎士と祖国へ戻ります』第一部、これにて完結でございます。
婚約を解かれた王女が、訳し違いひとつを手がかりに、術者と、元婚約者と、自分の先生を、順に自分の言葉で落としていく——最後まで罵らず、暴かず、ただ正確に訳し返すだけで、というお話にいたしました。お付き合いくださり、本当にありがとうございました。
名簿の一行目に残っていた、消された名前。あれが誰なのかは、まだ書いておりません。皆さまの応援がございましたら、続きを書くことがあるかもしれません。
ブックマークと評価は、四度目の語学試験に挑む騎士の、教本代に充てさせていただきます。




