第29話 先生、いまのお言葉を訳してもよろしいですか
翌朝、突き合わせの部屋には椅子が六つあった。マルレクは、入ってきて足を止めた。
「……人がおりますな」
「はい」
わたくしは立って迎えた。
「記録官殿、ギルドの書記殿、執務棟の書記が二名。それから、廊下にアシェ卿がおります」
「突き合わせは通詞二名で足ります」
「足ります。ですので、これは突き合わせではございません」
父上の名で出した召し状が、卓の上に置いてある。両国の記録に関わる者を集めて、条項の解釈を確認する場である。形式としては何もおかしくない。
マルレクは座った。座ってから、六つの椅子をゆっくり見回した。
「シャルロット様。これは、何のおつもりですか」
「稽古の続きでございます」
四人には、前の晩のうちに用向きを伝えてある。訳の突き合わせに立ち会っていただく、それだけである。何を突き合わせるかは言わなかった。言えば、来る前に誰かへ相談する人が出る。
わたくしは、兄の帳面を卓に置いた。
「先生。この一行を訳してくださいませ」
部屋の四人が、こちらを見た。マルレクは帳面を見た。音を写しただけの、七年前の紙である。
「……これは」
「兄の字でございます。意味は取っておりません。音だけを写しております」
「訳せと」
「はい。わたくしはもう訳しました。ですので、先生の訳と突き合わせたく存じます」
この人は、しばらく紙を見ていた。
「シャルロット様。私が訳す義理はございません」
「ございません」
わたくしはうなずいた。
「先生がここで訳さないとお決めになるのは、先生のご自由でございます。ただ、この部屋には両国の記録に関わる者が四人おります。リヴァンヌの通詞長が、リヴァンヌ語の一行を訳せない、あるいは訳さないと決めた——それだけは、四人の記録に残ります」
マルレクは動かなかった。
この人が三十年かけて積み上げてきたものは、正確さである。三十一通の署名も、七つに分けた敬語の段も、全部そこに乗っている。この部屋で訳を拒めば、その一点だけが崩れる。
「……よろしい」
この人は、紙を手元へ引いた。
そして、リヴァンヌ語で読み上げた。音を写した紙だから、読み上げれば原語に戻る。
それから、ヴェルネ語に訳した。
「『そのままにしておけ、と言われた。だから、そのままにした』」
わたくしの訳と、一字も違わなかった。
「ありがとうございます」
わたくしは、書記の一人へ目をやった。書いている。もう一人も書いている。ギルドの書記も、記録官も書いている。
四人が、同じ一行を書いた。
「先生。もうひとつ、お願いがございます」
わたくしは名簿の写しを置いた。ギルドから借り直したものである。
「この一覧の表題を、訳してくださいませ」
「派遣中、と書いてございます」
「その下の十二行のうち、ヴェルネの行の所属先を」
マルレクの指が、紙の上で止まった。
「……お読みになれるでしょう」
「読めます。ですので、突き合わせでございます」
この人は、答えなかった。わたくしは待った。四人も待った。
この待ち方は、あの送別の宴で覚えたものである。あのとき殿下は口を開いて止まり、その止まった時間そのものが広間に伝わった。わたくしは何も足さなかった。足さないのがいちばん効くと、あの日に知った。
教わってはいない。教わっていないことばかりが、いま役に立っている。
沈黙が長くなるほど、この部屋では不利になる。訳せない一行ではないからだ。誰でも読める、ただの所属先の欄である。
「シャルロット様」
やがて、マルレクは口を開いた。
「あなたは、私の教えたやり方でこれをやっておられる」
「はい」
「相手に喋らせる作法は、教えておりません」
「教わっておりません。リヴァンヌを発つ前の宴で、自分で考えました」
わたくしは、卓の上で手を組んだ。
「先生。もうひとつ、教わらなかったことがございます。人を集める作法でございます」
マルレクの目が、そこで初めて動いた。
「訳す者が一人しかいない部屋では、その一人が正しいかどうかを誰も確かめられません。十二の国の部屋は、どこも一人でございました。この部屋には、五人おります」
わたくしは名簿を指で押した。
「先生。所属先を、お願いいたします」
この人は、しばらく紙を見ていた。それから、静かに言った。
「――リヴァンヌ王国宮廷通詞長、直属」
書記の筆が、四本とも動いた。わたくしは息を吐いた。残りの十一行を読み上げるのに半刻かかった。十一とも同じ所属先である。
読み上げているあいだ、この人の声は最後まで乱れなかった。乱れないまま、一行ずつ自分の仕事を四人の紙へ移していった。三十年ぶんの正確さが、そのままこちら側の記録になっていく。
途中で一度、記録官の老人が筆を止めて顔を上げた。四十年この国の紙を見てきた人が、いま何が起きているのかを理解した顔だった。理解して、また下を向いて書いた。
わたくしは、この人を責める言葉をひとつも使っていない。使う必要がなかった。四人が同じものを書いているというだけで、この部屋の作りは変わっている。
【通詞の覚え】訳せる者が部屋に一人しかいないとき、その人は正しいのではなく、確かめられないだけでございます。人数を増やすのが、いちばん確かな作法です。
五人を部屋に入れる、というのがこの物語の答えでございます。派手さがなくて申し訳ありません。
次話――第1部の最終話でございます。名簿の一行目を、光に当ててみます。




