第28話 六歳のわたくしが書いた一行
その晩、わたくしは部屋の灯りを増やした。
蝋燭を四本、机の周りに立てる。ミレイユが不審そうな顔をした。
「殿下、目を悪くなさいます」
「薄い字を見たいのです」
いちばん古い帳面を開いた。
一頁目。大きな字で、一行。
――ただしく つたえる
わたくしは、その紙を灯りに透かした。
三年、リヴァンヌで書状を透かし続けた癖である。二枚重ねの紙を光に当てると、下の紙の字が浮く。一枚しかない紙でも、消した跡は影になって出る。
最初は何も出なかった。紙が厚い。角度を三度変えて、四度目に蝋燭を紙の裏へ回した。
浮いた。
一行の下に、もう一行あった。
鉛の芯で書いて、指で擦った跡だ。六歳の子が、書いてから恥ずかしくなって消したという形をしている。
わたくしは蝋燭を近づけた。灯りを近づけすぎると紙が焦げる。三年で二度やって、二度とも書き損じの紙だったから助かった。今日のこれは書き損じではない。
――せんせいが そう いった
息が止まった。六歳のわたくしは、あの一行を自分の言葉として書いていない。誰が言ったかを、下に書き添えている。
書き取る者は自分の言葉を混ぜない。原語と、出どころを残す。
その作法を、わたくしはあの日、まだ習っていなかった。習っていないのに、六歳の子は自分でそうした。言われた言葉を書いて、その下に、言った人の名前を書いた。
そして消した。消したのは、たぶん、書かなくてよいと言われたからだ。わたくしは紙を灯りから外して机に置いた。しばらく何も考えられなかった。
六歳の子が一行書いて下に出どころを添えるというのは、ふつうは思いつかない。思いつかないことを思いついたのだから、あの日のわたくしは何かに引っかかったのだろう。先生の言葉をそのまま自分のものにするのが嫌だったのか、それとも単に几帳面だっただけなのか。理由はもう分からない。
分からなくてよかった。分からないものを片方へ訳すのが、この仕事でいちばんやってはいけないことである。
ミレイユが後ろで水を注いでいる音がした。
「殿下。見えましたか」
「見えました」
「なんて書いてあるんですか」
「……出どころが、書いてございました」
「でどころ」
「誰が言ったのか、ということです」
ミレイユは、よく分からないという顔をした。分からないまま、水を置いていった。
「殿下。それ、いいことですか。悪いことですか」
戸口で、この娘が振り返って聞いた。
「……どちらでしょう」
「わたし、殿下のお顔だけ見てました。三日前より、いいお顔です」
わたくしは水を一口飲んだ。ぬるかった。この娘は湯を沸かし直さずに持ってくることがある。叱ったことはない。三日食べずにいる人間の前に、まず何か置くというのは、順序として正しい。
いいことか悪いことかを決めるのは、たぶん、まだ早い。分かったのは事実がひとつ増えたということだけである。事実は、増えた時点ではどちらでもない。どちらかにするのは、そのあとの自分だ。
わたくしは、その一行をもう一度透かした。
この十三年ずっと、わたくしはこの帳面を自分の芯だと思って持ち歩いてきた。リヴァンヌの謁見の間で膝を折ったときも、国境の宿でセレネ様と向かい合ったときも、この一行が下にあると思っていた。三日前にそれが「言われて書いたもの」だと知って、足元が抜けた。
いま、その下から、もう一行出てきた。誰にも習う前の六歳が、出どころを書き添えていた。
それは、通詞のやることである。
わたくしは机に肘をついて、両手で顔を覆った。声は出さなかった。蝋燭が四本とも、まだ同じ高さで燃えている。
あの人は、わたくしを作ったと言った。
六つのわたくしを見つけて、稽古をつけて、輿入れの話を出した。全部その人の仕事だと言った。
全部ではない。あの一行の下にあるものは、あの人の仕事ではない。見つけたということは、そこに何かがあったということだ。
顔から手を下ろした。机の上に、四本の蝋燭と、六歳の字と、その下の消された一行がある。わたくしは筆を取って、新しい紙を一枚置いた。
明日の段取りを書き出す。
まず、記録官の老人に来ていただく。あの人は四十年この国の紙を見てきた。リヴァンヌ語は読めないが公文の形は誰よりも知っている。
次に、ギルドの書記。若いけれど登録の作法を知っている。
それから執務棟の書記を二人。二人ともリヴァンヌ語を読める。訳の速さは足りないが遅くてよい。速さは要らない。要るのは人数である。
召し状は父上の名で出していただくことにした。両国の記録に関わる者を集めて条項の解釈を確認する場は、外交の形として通る。理由を細かく書かなくても止められない。
書き終えてから、父上のところへ願い出に行った。父上は理由をお尋ねにならなかった。ただ一言、こう仰った。
「何人だ」
「五人でございます」
父上は筆を執られた。三年で味方は何人できたかと聞かれたのは、帰った日である。あのときは、おりませんと申し上げた。
わたくしは、そこまで書いて、筆を止めた。三年、リヴァンヌの部屋にはわたくし一人しかいなかった。十二の国の部屋にも、一人ずつしかいない。
仕組みの穴は、そこに空いている。
わたくしが習わなかった三つのうち、いちばん大きいものが、たぶんこれだ。
――一人でやらない。
あの人は、それだけは決して教えなかった。
【通詞の覚え】消した字は、光に当てると出ます。書いた本人が忘れていても、紙の方は覚えております。
消した字が光に浮く話は、古い紙では本当に起こります。
次話――審問でございます。部屋には、わたくしのほかに四人おります。




