第27話 「お前を隣国へ送ったのは私だ」
条項の突き合わせでございます。同じ卓で、同じ紙を読みます。
突き合わせは、客間の隣の小部屋で行われた。
卓が一つ、椅子が二つ。書記も侍従もいない。両国の通詞が条項を読み合わせるだけの場だから、それで足りるという話になった。
廊下にはヴァンサン卿が立っている。マルレクは先に座っていた。机の上に紙が二枚、並べてある。左が原文、右が白紙。
わたくしは、そこで足が止まった。
「お座りください、シャルロット様」
わたくしは座った。
条項は十四ある。一つずつ読んで、両国の訳が食い違っていないかを確かめる。作業そのものは静かに進んだ。この人の訳は正確だった。正確でないところが一つもない。
三つ目の条項で、わたくしの訳の方に迷いが出た。関税の免除に付く条件で、リヴァンヌ語には「そのうえで」に当たる語が二つある。片方は前の文を受けて重ねる形、もう片方は前の文を条件にする形だ。わたくしは重ねる方を採っていた。
「シャルロット様。そこは条件の方でございます」
「……はい」
「重ねる形を採ると、免除が先に立ちます。免除は条件の後に来ませんと、来年の帳簿で揉めます」
直された。十三年前と同じ声で、十三年前と同じ調子で。
わたくしは訳を書き直した。書き直しながら、この人の言うとおりだと思っていた。思ってしまう自分を、卓の下で握った手で押さえた。
九つ目まで来たところで、わたくしは手を止めた。
「先生」
「はい」
「記録庫で、十三年前の派遣の紙を見ました。申し出はリヴァンヌ側からでございます」
「そのとおりです」
この人は、紙から目を上げなかった。
「どなたのご指示でございますか」
「私です」
あっさりと言われた。
否定されると思っていた。言い抜けられると思っていた。三年、リヴァンヌの宮廷で見てきた手つきなら、そうなるはずだった。
「お前を隣国へ送ったのは私だ」
マルレクは、そこでようやく顔を上げた。
「六つのお前を見つけて、稽古をつけて、輿入れの話をこちらから出した。全部、私の仕事です」
部屋が静かだった。
「……なぜでございますか」
「言葉のできる王女が要ったからです」
「わたくしでなくとも」
「お前でなければなりませんでした」
この人は、右の白紙を指で押さえた。
「シャルロット様。十六年前から、ギルドの名簿の一行目は空いております。ご覧になりましたね」
わたくしは答えなかった。答えなくても、この人には分かっている。
「あれは、書き忘れではありません。空けてあるのです。あそこに入る者は、一人しか要りません」
「……一人」
「訳を歪めない者が、十二人のうちに一人もいなければ、あの仕組みは十年ももちません」
わたくしは、卓の縁を掴んだ。この人が何を言おうとしているのかは、聞く前から半分わかっていた。わかっていて、最後まで聞くしかなかった。
「歪める者ばかりを十二の国へ置けば、いつか誰かが気づきます。気づいた者がギルドを疑ったとき、疑いを止めるものが要る。誰が見ても正確で、誰に確かめさせても寸分違わない訳をする者が、名簿の頭に一人いればよろしい」
この人は、初めて笑った。
笑ったというより、口の形が少し変わっただけだった。
「お前は、私が作った中でいちばん正確です」
わたくしは息をした。息をするのに、なぜか力が要った。褒められたのだと分かるのに、少し時間がかかった。
十三年、この人はわたくしに一度も嘘を教えなかった。訳を歪める作法を、ひとつも教えなかった。
教えなかったのは、優しさではない。
わたくしが歪めないことが、この人の仕事に要ったからだ。
「先生」
声が、思ったより細く出た。
「兄も、そのためでございますか」
「エミール様は、私の仕事ではありません」
「毎日あの部屋へ通っておられました」
「通ってこられたのです。私が呼んだのではありません」
マルレクは、白紙を裏返した。
「あの方は、妹御が何を習っているのかを知りたがっておられました。三年通って、リヴァンヌ語は結局書けるようになりませんでした。ただ、私が何をしているかには、途中から気づいておられたようです」
わたくしは、卓の縁を掴んだまま動けなかった。
「気づいて、どうなさいましたか」
「気づいて、そのままにしておいでになりました」
「――なぜ」
「妹御の稽古が止まると思われたのでしょう」
わたくしは、そこで初めて、この人の顔をまっすぐ見た。十三年、口元しか見なかった顔である。目は、ふつうの目をしていた。兄は気づいていて、そのままにした。妹の稽古が止まると思ったから。
その判断が正しかったのかどうかは、いま考えても分からない。止めていれば、わたくしはリヴァンヌへ行かず、三年を別の場所で過ごした。行かなければ、この人の名前に辿り着く者もいなかった。
兄は、たぶん、そこまで考えていない。十七の人が考えるのは、もっと近いところである。妹が毎日通っている部屋を、自分の一言で潰してよいのかどうか。それだけだ。
「シャルロット様。名簿の一行目は、まだ空いております」
マルレクは、白紙をこちらへ押した。
「お書きになりますか」
【通詞の覚え】正確であることは、それだけでは何も守りません。正確さは道具でございます。道具は、置かれた場所の役に立ちます。
褒められて背筋が冷える、という感じを書けていればよいのですが。
次話――帳面の一頁目を、もう一度開きます。六歳の字の下に、もう一行ございました。




