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魅了に囚われた婚約者を置いて、王女のわたくしは護衛騎士と祖国へ戻ります  作者: 九条かなで


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第26話 先生の方から、会いに来た

 マルレクは、三日後の昼に着いた。


 随員は二人だけである。使節ではないから、迎えの席も立たない。侍従長が門で受けて、客間へ通した。


 その三日、わたくしは書き出した紙を全部しまい込んだ。机の上に出しておくのをやめて、十六冊の名簿もギルドへ返した。返したのは、部屋に置いておく理由がなかったからだ。中身はもう頭に入っている。


 ヴァンサン卿には、来る人の名前だけを伝えた。


「その方が、殿下の先生でいらっしゃいますか」


「はい」


「では、自分は廊下におります」


「客間には入れませんよ」


「入りません。廊下におります」


 この人は、それだけ言って持ち場を決めた。七年前、扉の外に立っていたのと同じ形である。同じ形を選んだことに、この人が気づいているかどうかは分からなかった。


 わたくしは客間の前の廊下で待っていた。扉が開いて、その人が出てきた。


 背は高くない。灰色の外套に、書き物をする者の指をしている。歳は五十を少し過ぎたところだろう。


 顔を見ても、思い出せなかった。


 六歳から九歳まで、わたくしは毎日この人と向かい合っていたはずである。それなのに、目も鼻も、記憶のどこにも引っかからない。窓のない部屋のことは覚えているのに、その部屋にいた人の顔だけが抜けている。


 抜けているのは、たぶん、こちらが一度も顔を見なかったからだ。


 口を先に見なさい、と習った。習ったとおりにした。三年ぶんの稽古のあいだ、わたくしはこの人の口元しか見ていない。


 声を聞いて、思い出した。


「シャルロット様」


 急がない喋り方だった。低くもなく、高くもない。窓のない部屋で、机の向こうから、この声が毎日していた。


「……先生」


 自分の口から出た言葉に、わたくしは驚いた。


 十三年、その呼び方をしていなかった。名前を思い出せなかったのに、呼び方の方は残っていた。


「大きくなられました」


 マルレクは、そう言って軽く頭を下げた。


「書面の作り直しに参りました。両国の通詞で条項を突き合わせるのが早うございましょう。ヴェルネ側の通詞は、あなたと伺いました」


「はい」


「では、明日から」


 それだけ言って、この人は客間へ戻ろうとした。


「先生」


 わたくしは呼び止めた。


「十三年前、わたくしを教えに来られたのは、どなたのご指示でございますか」


 マルレクは足を止めて、振り返った。怒った顔でも、驚いた顔でもなかった。


「ご自分でお調べになりましたか」


「記録庫の紙を一枚」


「一枚で、そこまで」


 この人は、少しだけ目を細めた。


 その目つきに、わたくしは覚えがあった。稽古のときの目である。わたくしが正しく訳せたときに、この人はこういう目をした。


「よくお調べになりました」


 褒められた。褒められた瞬間に、背筋が冷えた。


 ――お前は、よくやっている。


 兄が七年間、毎日言われていた言葉と、同じ形の言い方だった。


「先生」


 わたくしは、なるべく普通の声で言った。


「兄をご存じでいらっしゃいますね」


「エミール様でございますか。存じております。よく部屋へおいででした」


「何をお話しになっていましたか」


「言葉のお話です。ご自分でも学びたいと仰いまして」


「兄は、リヴァンヌ語を書けませんでした」


「書けるようにはなりませんでしたな」


 この人は、そこで一度言葉を切った。


「学ぶには遅すぎるお歳でしたので。それでも通ってこられました。妹御が毎日学んでいるものを、ご自分も知りたいと」


 わたくしは、その一言で息が止まりそうになった。兄が、あの部屋へ通っていた理由。わたくしは、それを一度も考えなかった。


「先生。兄が最期に何と言ったか、ご存じですか」


「存じません」


「『そのままにしておけと言われた。だから、そのままにした』でございます」


 マルレクは、わたくしを見た。表情は変わらなかった。


「よく訳せております」


 それだけだった。否定もしない。認めもしない。ただ、訳の出来を評した。


 この人はいま、わたくしの言葉を「訳」として受け取った。中身ではなく、訳の精度の話にした。


 三年、リヴァンヌの宮廷でわたくしがやられ続けたのと、同じ手つきである。


「明日から、条項の突き合わせでございますな」


 マルレクは、そう言って客間へ入っていった。扉が閉まった。わたくしは廊下に立っていた。


 この人は、逃げに来ていない。


 書面の作り直しなら、随員に持たせれば済む。通詞長が自ら国境を越えてくる用件ではない。


 来たのは、わたくしがどこまで辿ったかを見に来たからだ。


 そして、いま、見ていった。


 わたくしは、記録庫の紙一枚で辿り着いたと自分から申し上げた。十三年前の派遣の紙が、こちらの記録庫にあることを、この人は今日はじめて知ったはずである。


 教えてしまった。


 どう教えてしまったのかを、廊下に立ったまま順に辿った。まず、こちらが調べていることを知らせた。次に、調べの出どころが記録庫の一枚であることを知らせた。そして最後に、兄の最期の言葉を訳せることまで見せた。


 三つとも、こちらから差し出した。誰も聞き出していない。


 送別の宴で殿下から言葉を引き出したとき、わたくしは自分がその手つきを使ったことに指先を冷やした。使わないと決めていたものを使ったからだ。


 いま、同じ手つきを、こちらが受けた側にいる。


 廊下の窓に、午後の日が入っていた。

【通詞の覚え】訳の出来を褒める人は、中身の話をしていません。褒められて嬉しくなった瞬間に、話が一段ずれております。


先生を悪人の顔で書かない、というのだけは決めておりました。


次話――突き合わせが始まります。先生とわたくしは、同じ卓で同じ紙を読みます。

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