第25話 魅了とは、訳し替えのことでした
名簿の写しは、ギルドから借り出した。十六年ぶん、十六冊ある。部屋の床に並べて、わたくしは派遣先の国名を書き出した。十二の国に、十二人。派遣年はばらばらで、いちばん古いのが十六年前だ。
次に、その十二の国で何が起きたかを調べた。執務棟の記録と、記録庫の外交の束を突き合わせる。三日かかった。
書記の三人が手伝ってくれた。頼んだわけではない。わたくしが束を運んでいるのを見て、一人が黙って半分を持ち、そのうち三人になった。関税の請願を止めた件から、この部屋の空気が少し変わっている。
「殿下、これは何をお探しで」
「事件を探しております。国と、年と、種類だけで結構です」
「種類、と申しますと」
「縁組みが壊れたか、条約で揉めたか、内側が割れたか。この三つで分けてくださいませ」
三人は理由を聞かなかった。聞かずに、紙を繰りはじめた。六つの国で、王家の縁組みが破談になっている。四つの国で、条約の解釈をめぐる争いが起きている。
二つの国は、内乱に近いところまで行った。
どれも、十年から十五年のあいだの出来事である。どれも別々の事件として記録されていて、どこにも繋がりは書かれていない。
わたくしは書き出した紙を見ていた。繋がりは、たぶん、こういうことだ。訳す者が一人いれば、両国のあいだを通る言葉の全部が、その一人の手を通る。
通るときに、少しだけ形を変える。
嘘をつく必要はない。「待った」を「催促した」にするだけでいい。「説明する」を「そう見せる」にするだけでいい。一語ずつ、間違いとも言えない範囲で寄せていく。
寄せられた側は、気づかない。原語を確かめる手段がないからだ。確かめられる者が、その部屋にただ一人しかいないのだから。
三年、わたくしはリヴァンヌの宮廷で、その「ただ一人」だった。そして、わたくしは寄せなかった。寄せない訳し方だけを、十三年かけて叩き込まれていたからだ。
ここが、わたくしにはうまく組み立てられない。
寄せる仕組みを作った人が、寄せない訳し方をわたくしに教えた。矛盾している。矛盾しているのに、両方とも事実である。
考えられる形は二つある。ひとつは、わたくしが仕組みの一部ではなく、別の用途で作られたということ。もうひとつは、寄せない者がひとり混じっていることに意味があるということだ。
どちらも、いまは推し量りにすぎない。註を付けて残しておく。
六つの破談を、わたくしは一つずつ読み直した。どれも似ている。両家の話が途中まで進んでいて、ある時点から食い違いが増え、最後に片方が「そんな約束はしていない」と言い出す。
そのうち一つに、当時の議事録の写しが付いていた。十一年前、アルセアの縁組みが壊れたときのものである。リヴァンヌ語の発言に、ヴェルネ語の訳が並べてある。
わたくしは訳を読んだ。
――先方は、支度金の額に不服がある。
それから原文を読んだ。
――先方は、支度金の額を確かめたがっている。
わたくしは書記を呼んだ。
「この一行を、そのままお読みくださいませ」
書記は訳の側を読み上げた。不服がある、と。
「原文はこうでございます」
わたくしはヴェルネ語に直した。確かめたがっている、と。
「……ぜんぜん違いますね」
「はい。不服なら交渉は終わりますが、確かめたいのなら数字を出せば済みます」
書記が議事録の続きを繰った。三日後、アルセア側が席を立っている。理由の欄には「先方に不服あり」と書いてある。
一語である。一語を寄せるだけで、席を立つ理由が作れる。
そんな約束はしていない、という言い分は、たいてい本当なのだろう。言った本人の耳には、そう聞こえていなかったのだから。
わたくしは筆を置いた。
魅了は、魔法ではない。
いや、術と呼んでもいい。呼び方はどちらでもよくて、中身は同じことだ。人の耳に入る言葉を、その人に都合よく訳し替える。それを毎日、何年も続ける。
続けられるのは、その部屋で言葉を扱う者が一人しかいないときだけである。
だから十二の国へ、一人ずつ送った。
殿下の耳の中で言葉を変えていたのは、セレネ様ではない。あの方は魅了を「買った」だけだと、ロズリーヌが言っていた。買えるものだと思っている時点で、あの方も仕組みの外にいる。
買った先が誰かは、もう分かっている。
窓の外が暗くなっていた。ミレイユが灯りを持ってきて、机の隅に置いた。
「殿下、それ、何のお調べですか」
「昔の事件を並べております」
「ばらばらの国のですか」
「ばらばらでございます。ばらばらに見えるように起きております」
ミレイユは紙を覗き込んだ。読めるのは国名と数字だけだろう。
「……これ、全部、通詞の人がいた国ですか」
わたくしは顔を上げた。
「なぜ、そう思ったの」
「殿下がここ何日か、通詞の名簿ばかりご覧になっていたので」
この娘は、そういう見方をする。
わたくしは紙を揃えた。
揃えながら、自分の手が少し震えているのに気づいた。東屋の柱の陰で最初の食い違いを聞いたときと同じ震え方である。あれからまだ二月と経っていない。
あのとき、わたくしは三日黙っていた。誰に言えばよいのか分からなかったからだ。いまは、言う相手が決まっている。決まっているのに、まだ何もできない。
証拠は、名簿と、事件の一覧と、書写者の署名だけだ。全部こちらの手で集めたものである。並べて見せても、これはわたくしの帳面から出た文でしかない。
しかも、いちばん肝心なところが繋がっていない。名簿は「十二人が十二の国にいる」ことしか言っていない。事件の一覧は「その国で何かが起きた」ことしか言っていない。二つを結ぶ線は、わたくしの頭の中にしかない。
結ぶ線を紙の上に置ける者は、この世に一人しかいないだろう。それを組み立てた本人である。
効くのは、相手が自分の口で言った瞬間だけだ。それは、この十五年で誰もやれなかったことでもある。扉が叩かれた。
「殿下」
侍従長の声だった。
「リヴァンヌより、先触れが」
わたくしは立ち上がった。
「使節でございますか」
「使節ではございません。先の調印を持ち帰った件で、書面を作り直すために通詞長が参るとのことでございます」
わたくしは、扉の前で足を止めた。
「お名前は」
「マルレク、と」
【通詞の覚え】訳す者が一人しかいない部屋では、その一人が正しいかどうかを誰も確かめられません。仕組みの穴は、たいてい人数のところに空いております。
お読みくださりありがとうございます。ここまでの伏線が一本に繋がりました。
次話――先生が、こちらへ参ります。十三年ぶりでございます。




