第23話 わたくしが習ったのは、どこまでが嘘か
三日かけて、十三年ぶんの帳面を読み直した。
百八冊ある。全部を通して読むのは初めてだった。書いているときは一冊ずつしか見ていない。並べて読むと、別のものが見えてくる。
わたくしが探したのは、習ったことではない。習わなかったことである。一日目の終わりに、三つ書き出した。
ひとつ。相手に喋らせる作法を、わたくしは習っていない。訳すのは、目の前に置かれたものだけ。置かれていないものを取りに行く手順は、十三年のどこにも出てこない。
ふたつ。訳を拒む作法を習っていない。この文は訳すべきでない、と判じて手を止める場面が、一度も稽古に出てこなかった。宿場町の娘の前で、わたくしは自分でそれを考えるはめになった。
みっつ。自分の訳を証明する作法を習っていない。証人の立て方、控えの残し方、照合の求め方。どれも稽古にない。
三つとも、通詞が実際に困る場面である。
三つとも、教えられていない。
教えられなかったのが手抜きでないことは、稽古の細かさを見れば分かる。あの人は、リヴァンヌ語の敬語の段を七つに分けて教えた。七つである。実際の宮廷で使い分けが要るのは四つで、残り三つは古い書物にしか出てこない。そこまでやる人が、証人の立て方を忘れるということはない。
忘れたのではなく、外してある。
外してあるものを並べると、その形は「一人で部屋にいる通詞」になる。誰にも確かめられず、誰にも確かめさせず、渡されたものを渡すだけの人。
もうひとつ、並べてみて分かったことがある。
リヴァンヌで書いた最初の一年の帳面には、頁の隅に直しが入っている。わたくしの字ではない。三年のあいだ、侍女の誰かがやってくれているのだと思って、それ以上は考えなかった。三十七冊を並べると、直してある箇所が揃う。敬語の段の、四つ目から先だけである。実際の宮廷で使い分けの要る四つは、一度も直されていない。
七つに分けて教えた人の、直し方だった。
国を越えた先でも、わたくしは毎晩、稽古の続きをさせられていたことになる。
二日目、わたくしは逆から数えた。習ったことのうち、いま思えば妙なものを探した。
いちばん妙なのは、原語を先に書き取る作法だ。訳を先に書かない。原語のまま残す。書き取る者は自分の言葉を混ぜない。この作法は、正しい。正しいのだが、正しさの向きが一方通行である。
この作法を守るかぎり、わたくしの帳面は「原語の控え」でしかない。控えは、それ自体では何の力も持たない。国境の宿でセレネ様が言ったとおりで、控えは書いた者の帳面から出た文にすぎない。
力を持つのは、相手がその場で口に出した瞬間だけだ。わたくしは十三年、力を持たない形で書き続ける訓練を受けていた。三日目、わたくしは筆を置いた。
部屋の床に百八冊が積んである。ミレイユが黙って茶を置いていった。この娘は、わたくしが黙っているときには何も聞かない。
わたくしは、いちばん古い一冊を膝に載せた。
一頁目の一行。
――ただしく つたえる
六歳の字である。手本のない字だ。
わたくしはずっと、この一行を自分の芯だと思ってきた。三年の宮廷でも、この一行があったから折れずに済んだ。
いま、その一行がどこから来たのかが分からない。
あの日、教師は何も書かなかった。何も書かずに、六歳の子に一行書かせた。書かせた言葉は、たぶん、教師が口で言ったものだ。子どもは言われたことを書く。
だとすれば、これは自分で決めた言葉ではない。言われて書いた言葉を、十三年、自分の芯だと思って守ってきたことになる。わたくしは帳面を閉じた。
閉じてから、しばらく動けなかった。
厄介なのは、この一行が間違っていないことである。正しく伝える。通詞の芯として、これ以上のものはない。十三年これを守って、わたくしは一度も訳を歪めなかった。歪めなかったことを、誇ってよいはずだ。
誇ってよいのに、いま、足元に何もない感じがする。
守ってきたものが正しいかどうかではなく、それを自分で選んだかどうかが、こんなに効くとは思わなかった。同じ一行でも、選んだ人と、言われた人とでは、立っている場所が違う。
わたくしは百八冊の山を見た。この山の全部が、言われて書いたものかもしれない。
夕方、ミレイユが扉を叩いた。
「殿下。厨房の方が、これを」
盆に、茶と、焼いた菓子が載っている。
「頼んでおりませんが」
「わたしが頼みました。殿下、三日なにも召し上がっていませんので」
「……三日」
「三日です。数えました」
わたくしは菓子を一つ取った。まだ温かい。
「ミレイユ」
「はい」
「あなたは、リヴァンヌ語をなぜ習おうと思ったの」
ミレイユは、少し考えた。
「厨房の下働きの人が、困っていたので」
「困って」
「はい。あの人はヴェルネ語がほとんど分からなくて、荷の受け取りのたびに間違えて叱られていました。誰も教えてあげないので、じゃあわたしが向こうの言葉を覚えれば、間に入れると思って」
わたくしは、菓子を持ったまま止まった。
「三か月で、足りたの」
「足りません。いまでも半分は分かりません。でも、間に入る人がいるのといないのとでは、違いますので」
この娘は、誰にも習っていない。
習っていないのに、わたくしが十三年かけて習わなかった三つのうち、二つを最初から持っている。
誰かのために取りに行くことと、足りないまま間に立つこと。
わたくしは菓子を食べた。甘かった。
「ミレイユ。その下働きの方は、いまも厨房に」
「おります。もう叱られていません」
「あなたが間に入ったから」
「そうでもないです。あの人がこっちの言葉を覚えたので。……間に入る人がいると、覚える気になるみたいです」
わたくしは二つ目の菓子を取った。
間に入る人がいると、覚える気になる。
リヴァンヌの宮廷で、間に入る人はわたくし一人だった。一人しかいなければ、誰も覚える気にならない。三年のあいだ、あの宮廷でヴェルネ語を覚えようとした人は、殿下のほかに一人もいなかった。
【通詞の覚え】何を習ったかより、何を習わなかったかの方が、教えた人の意図がよく出ます。
習わなかったことを数える、という作業を主人公にさせてみたかったのです。
次話――通詞ギルドの記録庫へ参ります。この国にも支部がひとつだけございました。




