第22話 書状の裏に、先生の名前があった
使節は帰りました。残ったのは紙が二枚と、署名が一つでございます。
二通の覚書は、父上の指示で記録官のもとへ移された。
わたくしはその前に、裏の署名を写しておいた。写しを取るのは通詞の当然の手順で、誰にも咎められない。
翌朝、記録庫へ行った。
ヴェルネの記録庫は西の棟の地下にある。石の階段を下りると、棚が奥まで並んでいて、紙の匂いがする。番をしている記録官は六十を過ぎた男で、わたくしの顔を見て少し驚いた顔をした。
「王女殿下がこちらへおいでとは」
「五年前より古い、リヴァンヌとのやりとりを拝見したいのですが」
「どのあたりまで」
「十五年ぶん」
記録官は眉を上げた。
「十五年でございますか」
「はい」
束は、思ったより早く出てきた。この国の記録は年ごとに紐で括ってある。十五束とも、結び目が同じ形をしていた。括り方には人の癖が出る。十五年、この部屋の紐は同じ手で結ばれている。
わたくしは石の卓に十五束を並べ、いちばん古いものから開いた。
探すのは中身ではない。裏の署名だけである。
リヴァンヌの公文は、表に本文、裏の左下に書写者の署名を入れる。入れる位置も大きさも決まっていて、探すのに時間はかからない。ヴェルネの公文には、そもそもその欄がない。同じ「公文」でも、国が違えば残す情報が違う。
十五年ぶんの束を一つずつ解いて、紙を裏返しては戻す。それだけの作業である。目が乾いてきたので、途中で二度、階段の上まで出て外の光を見た。
記録官の老人は何も聞かずに、ときどき蝋燭を替えに来た。地下は昼でも暗い。この人は四十年この部屋にいるのだと、替えに来たついでに言った。四十年ぶんの紙の匂いが、この人の外套に染みている。
半日かかった。
結果は、思っていたより単純だった。
リヴァンヌから来た公文のうち、書写者の署名が入っているものが四十二通ある。そのうち三十一通が同じ名前だった。
マルレク。
いちばん古いものが十四年前で、いちばん新しいものが今年の春だ。
「記録官殿」
「はい」
「この署名の方を、ご存じですか」
老人は紙を覗き込んで、しばらく見ていた。
「……存じております。というより、この国の記録官でこの名を知らぬ者はおりません」
「なぜでございましょう」
「リヴァンヌの通詞長でございますからな。あちらから来る紙の大半は、この方の部屋を通ります」
それは、たしかにそうだろう。通詞長の部屋を通るのが正しい手順である。
「ただ」
記録官が付け加えた。
「書写者の署名を入れるかどうかは、本来、通詞長の裁量でございます。入れなくてもよいのです。この方は入れておられる」
「なぜでしょう」
「さあ。責任の所在をはっきりさせたいのだと、こちらは受け取っておりました」
わたくしは三十一通を並べ直した。年の順に置くと、途切れがない。二年空いた時期が一度だけあって、そこは前の通詞長の代だと記録官が言った。
十四年ぶん、この人の名前がヴェルネの記録庫に積み上がっている。
署名を入れるのは、責任を取るためだと普通は考える。けれど、入れる意味はもうひとつある。
誰がこの紙を作ったかを、後から必ず辿れるようにしておく。
辿れるようにしておくのは、辿ってほしいときだ。
もっとも、これはわたくしの読みすぎかもしれない。署名を入れるのが単にこの人の几帳面さである可能性は残る。三十一通に名前があるという事実からそこまで引き出すのは、通詞のやることではなく、占いのやることだ。
わたくしは書き出した紙に、いまの読みを「推し量り」と註を付けて残した。註を付けておけば、後で自分がそれを事実だと思い込むことはない。三年、リヴァンヌでそうやって自分を守ってきた。
束を戻しながら、わたくしは一枚を手元に残した。九年前の通商の取り決めで、ヴェルネ側の訳が裏に貼り付けてある。
「記録官殿。この訳をお読みいただけますか」
老人は貼り紙を読み上げた。
「両国は、国境の橋の修繕費を、折半して負担するものとする」
「原文はこうでございます」
わたくしはリヴァンヌ語のまま読み、それからヴェルネ語に直した。
「両国は、国境の橋の修繕費を、使用の割合に応じて負担するものとする」
老人の手が止まった。
「……折半ではないのですか」
「ございません。この語は分けるという意味ではなく、割り当てるという意味でございます。似ておりますが、片方は半分で、もう片方は使った分でして」
「九年、こちらは半分ずつ出しております」
「橋を渡る荷は、どちらが多うございますか」
記録官は答えなかった。答えなくても、国境の橋を何が通るかは、この人がいちばんよく知っている。
「……八割は、向こうの荷でございますな」
老人は貼り紙を剥がし、新しい紙に書き直しはじめた。九年ぶんの差額をどうするかは、この人の仕事ではない。ただ、明日からの一枚は正しくなる。
「記録官殿。もう一つ伺います」
「はい」
「十三年前、わたくしの言葉の教師として王宮へ入った方の記録は、どちらにございますか」
老人は棚の方を見た。
「王宮に出入りした者の名簿は、東の棟の人事にございます。……ただ、殿下」
「はい」
「十三年前の教師でしたら、こちらにも一枚ございました」
記録官は立ち上がり、いちばん奥の棚から薄い束を出してきた。
「他国からの人の受け入れは、紙が二枚出ます。人事と、こちらと。こちらは『どの国から、どういう用向きで』を残す方でございます」
わたくしは受け取った。
一枚きりの紙だった。
十三年前の春。リヴァンヌ王国より、王女シャルロット殿下の語学教育のため、通詞を一名派遣。
派遣の申し出は、リヴァンヌ側からである。こちらから頼んだのではない。わたくしは紙を持ったまま、石の卓の縁に手をついた。
輿入れが決まったのが十三年前の春だ。同じ年、同じ季節に、向こうから教師が来ている。
この一枚を、わたくしは三度読んだ。三度読んでも同じことが書いてある。派遣の申し出は向こう。用向きは王女の語学教育。日付は十三年前の三月。
輿入れが正式に決まったのは、その年の二月である。ひと月しか離れていない。順番が、逆どころではなかった。輿入れと教師は、同じ一つの話だったのだ。
紙のいちばん下に、派遣の署名がある。昨日、裏の署名で三十一通に見た名前と同じものが、今度は表に、申し出た人として書いてある。
「殿下。この一枚、お持ちになりますか」
記録官が言った。
「いいえ。ここに置いてくださいませ」
持ち出せば、それはわたくしの帳面から出た紙になる。ここに置いてあるかぎり、これはヴェルネ王国の記録である。
石の階段を上がりながら、わたくしは指を数えていた。十三年前の三月から、今日まで。何日あったのかは、上りきるまでに数え終わらなかった。
【通詞の覚え】書写者の署名は、入れても入れなくてもよいものです。入れる人は、後から辿られてもよいと思っているか、辿ってほしいと思っているかのどちらかでございます。
橋の修繕費の件は、九年ぶんの差額をどうするか誰も言い出しません。たぶん、このままでございます。
次話――十三年ぶんの帳面を、はじめから読み直します。何を習わなかったのかを、数えるためでございます。




