第21話 同じ署名の下で、殿下は違うことを仰っている
最終日の朝、送別の席が立った。
使節が発つ前に、両国が調印の形を確認する。形式だけの席である。大広間に父上と廷臣、リヴァンヌ側は殿下と随員四人。
朝のうちに、わたくしは侍従長へ一言だけ断りを入れておいた。読み上げの前に確認したい点がある、と。理由は言わなかったし、聞かれもしなかった。通詞が読み上げ前に確認を入れるのは、手順として珍しくない。
卓の上に、覚書が一通置かれていた。わたくしは通詞の位置に立った。読み上げるのはわたくしの役目である。
「では、条項の読み上げを」
侍従長が言った。わたくしは覚書を手に取り、それから、もう一枚を隣に置いた。広間が、ざわめいた。
「王女殿下。それは」
「同じ条項の、別の写しでございます」
わたくしは殿下を見た。
「殿下。この二枚は、どちらも殿下のご署名がございます。読み上げる前に、どちらを読むべきかを伺わねばなりません」
殿下の顔から、色が引いた。随員の一人が、思わず腰を浮かせた。厩で紙を落とした男である。
「……その紙は」
「アシェ卿がお預かりしたものでございます。厩番が二名、受け渡しを見ております。そちらの随員殿が、三度お返ししようとしたものを受け取られませんでしたので」
随員が座り直した。座り直すしかない。
「王女」
殿下が口を開かれた。
「それは内務向けの覚書だ。両国の取り決めとは別の文書である」
「はい。ですので、伺っております」
わたくしは二枚を卓の上で並べた。
「国境の警備の分担について、こちらの覚書では、ヴェルネ六・リヴァンヌ四でございます。内務向けの覚書では、ヴェルネ四・リヴァンヌ六でございます」
わたくしは殿下から目を離さなかった。
「殿下。どちらが、殿下のお考えでございましょうか」
沈黙が長かった。
父上は何も仰らなかった。廷臣も動かない。この場で殿下に答えさせられるのは、二枚を読める者だけである。
「……両方だ」
殿下は、そう仰った。
「対外の覚書と内務の覚書は役割が違う。国内向けには、こちらの負担が重いと示しておく必要がある。予算を通すためだ」
「承知いたしました」
わたくしはうなずいた。
「では、殿下。いま仰ったことを、リヴァンヌ語でもう一度お願いいたします。わたくしが訳して控えます」
殿下は、口を開かれた。そして、止まった。
あの晩と同じである。あのときは送別の宴で、今日は調印の席だ。止まる場所が同じであることに、この方はまだ気づいておられない。
「殿下」
わたくしは、静かに言った。
「いまのご説明を、そのままリヴァンヌ語で仰れば、この席は通ります。予算の都合であると仰ればよろしいのです。わたくしはそのまま訳します」
「……」
「ただ、そのお言葉をリヴァンヌ語で組み立てますと、『負担が重いと示す』という部分に使える動詞が二つございます。ひとつは『説明する』、もうひとつは『そう見せる』でございます」
わたくしは二枚を、一枚ずつ卓に押した。
「殿下がどちらをお使いになるか、この広間の全員が伺っております」
殿下は、答えられなかった。
答えれば済む。予算の都合だと、リヴァンヌ語で一言仰ればよかった。それだけで、この席は形式のまま終わった。
答えられなかったのは、この方が、この三日で自分の言い分を一度も口に出して確かめていなかったからだ。頭の中で組み立てた文は、口に出すまで矛盾に気づかない。三年、この方はずっとそうしてきた。
そして、この方の周りにいた人たちも、口に出させなかった。侍従長も記録官も、殿下が組み立てた文をそのまま書き取って回した。書き取る者が誰も訳し直さなければ、文は矛盾したまま何年でも通る。
わたくしはこの席で、殿下を責めていない。責める言葉をひとつも使っていない。ただ、どちらを読むべきかを尋ねただけである。尋ねるのは通詞の当然の手順で、三年前からずっとそうしてきた。誰も答えさせなかっただけだ。
やがて、リヴァンヌ側の随員の一人が立ち上がった。
「陛下。……本日の調印は、持ち帰らせていただきたく」
父上が、ようやく口を開かれた。
「よろしい」
それだけだった。使節は、その日の午後に発った。門のところで、殿下が一度こちらをご覧になった。
何か仰りたそうだった。仰らなかった。わたくしも、何も申し上げなかった。訳す言葉がなかったからである。馬列が坂を下って、木立に消えた。
隣で、ヴァンサン卿が言った。
「終わりましたか」
「終わりました」
「殿下、お顔が」
「顔が」
「……なんでもございません」
この人はそれきり黙った。
わたくしは門の外を見ていた。何かがすっきりしたわけではない。ただ、三年ぶんの帳面のうち、ようやく一冊ぶんが役目を果たした感じがした。
あの席で殿下が沈まれたのは、わたくしのおかげではない。二枚の紙が両方とも本物だったからだ。わたくしは並べて、尋ねた。それだけである。
それだけのことを、三年できなかった。できなかったのは能力の問題ではなく、並べる二枚目が手元に来なかったからだ。二枚目を持ってきたのは、リヴァンヌ語を一言も読めない人だった。
その晩、二通の覚書を照合し直していて、内務向けの方の裏に薄い署名があるのに気づいた。
書写者の署名である。マルレク。
【通詞の覚え】二枚並べるだけで足りることがございます。こちらが何か言う必要はありません。並べたものを読むのは、いつも相手でございます。
お読みいただきありがとうございました。長い一章にお付き合いくださり感謝いたします。
次話――裏の署名を追います。五年前の写しにも、同じ名前がございました。




