第20話 読めない紙を、彼は持ってきた
翌日の夕方、ヴァンサン卿が執務棟へ来た。この人が執務棟へ来たことは一度もない。書記の三人が顔を上げた。
「殿下。少しよろしいですか」
書記たちがこの人を見たのは、たぶん背丈のせいである。近衛の礼装は執務棟では目立つ。
廊下へ出ると、この人は懐から紙を一枚出した。
「読めませんので、お願いします」
わたくしは受け取らなかった。
「アシェ卿。これは、どちらで」
「使節の随員から、直に受け取りました」
「直に」
「はい」
わたくしは紙を見た。折り目が新しい。四つ折りにして懐に入れていたのが、今日つけた折り目である。もとは筒に巻いてあったらしく、端が丸まっていた。
こういうことに目が行くのは、三年の癖だ。紙の扱われ方には、その紙の値打ちが出る。大事にされている紙は端が丸まり、どうでもよい紙は角が潰れる。
「経緯を伺ってもよろしいですか」
「今朝、厩でリヴァンヌの随員と揉めました」
この人は、なんでもないことのように言った。
「向こうの馬に、こちらの飼葉を出しております。その配分でひと悶着ありまして、随員の一人が、ヴェルネの厩番は数を誤魔化していると言い出しました。言い出したのはヴェルネ語です。あちらもこちらの言葉を少し使いますので」
「それで」
「自分は帳面を出しました。飼葉の出し入れは毎日つけております。数は合っております。合っていると申しましたら、向こうが『そちらの帳面など当てにならん』と」
わたくしは黙って聞いていた。
「そこで自分は申しました。ではそちらの帳面を出してくださいませ、と。両方並べれば、どちらが合っているかは誰でも分かります」
この人は、そこで一度言葉を切った。
「随員は、鞍嚢から帳面を出しました。出したときに、一緒にこれが落ちました」
わたくしは紙を見た。
「拾って、お返ししようとしましたら、随員が青くなって『それは違う』と申しました」
「違う、と」
「はい。ですので、自分はもう一度差し出しました。それでも受け取りません。三度目に、こう申しました。――受け取っていただかないと、自分が盗んだことになります、と」
廊下の窓から、夕日が入っていた。
「随員は、しばらく考えて、それから『持っていていい』と申しました。厩番が二人、聞いております」
わたくしは、その紙をようやく受け取った。
盗んでいない。拾って、三度返そうとして、相手が受け取りを拒んだ。厩番が二人見ている。
出どころが、濁っていない。
「アシェ卿。これは、狙ってなさいましたか」
「飼葉の件は本当でございます」
「そちらは伺いました。そのあとのことでございます」
ヴァンサン卿は少し黙って、それから言った。
「殿下が、紙を一枚お探しだと伺いましたので」
「どなたから」
「ミレイユ殿から。……厩へ来て、兄の袋の話をなさいました」
わたくしは廊下の壁に手をついた。
「あの娘は」
「よくできた娘御でございます。自分に頼めば、自分が何をするか分かっていたのでしょう」
ミレイユは、わたくしに「厩を調べましょう」とは言わなかった。言えば、わたくしが止めたからである。あの娘は止められる相手ではなく、止めない相手へ話を持っていった。
そしてヴァンサン卿は、盗まずに済む道を選んだ。飼葉の帳面を先に出し、相手にも出させ、落ちたものを三度返そうとして、二人の証人の前で断らせた。手順のどこにも汚れがない。
三年、わたくしの周りにいたのは、正しい手順を知っていて、それを使わない人たちだった。
紙を開いた。リヴァンヌ語である。関税の条項が並んでいる。三日前に読んだ覚書と、同じ条項だった。
同じ条項で、数字が二箇所、違っていた。わたくしは廊下で、その二箇所を三度読み直した。
国境の警備の分担について、こちらへ回してきた覚書では六対四になっている。この紙では四対六だ。
そして、末尾に署名がある。オスカー・ド・リヴァンヌ。同じ署名が、両方に入っている。
「殿下」
「……アシェ卿」
わたくしは顔を上げた。
「この紙は、どなたに宛てたものだと思われますか」
「読めませんので」
「宛先は、リヴァンヌ王家の内務にございます。つまり、国へ持ち帰る用の写しでございます」
わたくしは紙を折った。
「殿下は、こちらへ六対四と仰り、国へは四対六と報告なさるおつもりです」
「……それは、嘘でございますか」
「嘘ではございません。どちらも、殿下がご自分で署名なさった本物でございます」
わたくしは、その言い方をしてから、自分の声が少し震えているのに気づいた。嘘ではない。両方とも本物である。だから効く。
偽物なら、偽物だと示せば終わる。示すのはこちらの仕事で、示せなければこちらの負けだ。国境の関所でも、王宮の茶会でも、わたくしはずっとその形で戦ってきた。
本物が二枚あるときは、そうならない。並べるだけでいい。並べたものを読むのは相手で、答えるのも相手である。こちらは、どちらを読むべきかを尋ねるだけだ。
三年かけて分からなかったことが、廊下の夕日の下で、急に形になった。
【通詞の覚え】拾った紙は、三度返そうとして初めてこちらのものになります。二度では足りません。人は三度目で観念いたします。
三度返そうとする、という手順だけは、どうしても入れたかったところです。
次話――二通を並べます。殿下ご自身の署名が、二つ並んでおります。




