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魅了に囚われた婚約者を置いて、王女のわたくしは護衛騎士と祖国へ戻ります  作者: 九条かなで


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第19話 二通目は、まだこの城にある

 日付の合わない覚書を、わたくしは三日かけて調べた。


 結論から言えば、三日では何も出なかった。


 覚書そのものは正式なものだ。印も本物で、文の格も公文として正しい。おかしいのは日付だけである。交渉が始まる前に、交渉の結果と同じ内容の紙が作られている。


 考えられることは二つある。


 ひとつは、単純な書き間違い。写しを作るときに前の日付を写してしまうのはよくある。


 もうひとつは、この覚書が「今回の交渉のために作られたもの」ではないということだ。


 つまり、条項はもともと決まっていた。交渉は、決まっていたものを両国の前で確認する場だった。それなら日付が先でも矛盾しない。


 問題は、決めたのが誰かである。


 条項を先に決めておいて、席では確認だけをする。それ自体は珍しいことではない。両国の実務が事前に詰めて、上の者が並んで判を押す。手順としてはむしろ整っている。


 ただ、今回の交渉は、殿下がご自分で数字を暗記して臨まれた。書類を見ずに答えられたのは、覚えてきたからだ。覚えてくる必要があったのなら、この方もまた「先に決まっていたもの」を受け取った側である。


 受け取った側が王太子なら、渡した側は誰か。


 わたくしは三日、そこで止まっていた。


「殿下、これは」


 執務棟の責任者に見せると、男は困った顔をした。


「日付だけを根拠に、他国の覚書を疑うわけには参りません」


「存じております」


「同じ内容の書状がもう一通ある、というのは、殿下の推し量りでございましょう」


 そのとおりだった。


 書き取ってあるのは日付だけで、あとは全部わたくしの読みである。三年前、リヴァンヌの広間で言われたのと同じことを、今度は自分の国の役人から言われている。


 違うのは、この人が意地悪で言っていないという点だ。


「二通目を、お探しになると」


「探します」


「どこを」


 わたくしは答えられなかった。


 執務棟を出て、わたくしは回廊を二周した。歩くと考えがまとまる、というほど都合のよい頭ではないが、座っていると同じ場所を三度考えてしまう。


 回廊の窓から、使節の一行が使っている棟が見えた。灯りが二つ点いている。あの棟には、随員が四人と殿下が一人。荷は玄関脇に積まれていて、馬具だけが厩へ回されている。


 その晩、部屋でミレイユが茶を淹れながら言った。


「殿下、ここ何日か、ずっと難しいお顔です」


「そう見えて」


「紙をお探しなんですか」


「なぜ分かるの」


「机の上の置き方が、探し物のときの置き方なので」


 この娘は、たまにこういうことを言う。人の手元をよく見ている。宮廷の作法をひとつも知らないのに、机の紙の並びで持ち主の頭の中を当てる。


「紙を一枚探しております。あるかどうかも分かりません」


「使節の方々のお部屋には」


「入れません。他国の使節の私室は、当人の許しがなければ誰も入れません」


 ミレイユは茶を置いて、少し考えた。


「じゃあ、部屋じゃないところに置いてあったら」


「どういう意味」


「うちの兄が、大事なものを部屋に置かない人でして。部屋は誰かが掃除に入るからって、いつも馬具の袋に入れてました」


 わたくしは茶に手を伸ばしかけて、止めた。使節の私室には入れない。だが、荷は別だ。


 他国の使節が持ち込んだ荷のうち、馬具と鞍嚢は厩に置かれる。厩はこの城の管理下にあって、掃除も点検もこちらの人間が入る。


 そこまで考えて、わたくしは息を吐いた。


 考えたところで、わたくしにできることは何もない。厩の荷を勝手に開ければ、それは盗みである。二通目が出てきたとしても、出し方が汚ければ何の意味もない。


 訳し返しが効くのは、相手が自分の口で言った瞬間だけだ。盗んだ紙は、たとえ本物でも、この広間の外で作られたものになる。国境の宿でセレネ様がわたくしに言ったのと、同じ理屈である。


 ――それは、あなたの帳面から出た文でございますわね。


 わたくしは机に肘をついた。二通目がどこにあるかは、たぶん分かった。どうやって表に出すかが、分からない。


 三年、わたくしは「正しく訳す」だけで仕事をしてきた。正しく訳すには、訳す対象が目の前に置かれている必要がある。置かれていないものを取りに行く作法を、わたくしは習っていない。


 習っていないというより、習わせなかったのだと思う。窓のない部屋で二枚の紙を並べた人は、わたくしに「渡されたものを渡す」ことだけを教えた。取りに行くことは一度も教えなかった。


 いま思えば、それは親切ではない。


「ミレイユ」


「はい」


「兄上様は、その袋の中身を人に見せたことがおありかしら」


「一度だけあります。母に。……いえ、見せたというか、母が『何を隠してるの』って聞いたら、逆上して自分から出しました」


「逆上して」


「はい。隠してるつもりはない、って言いながら、全部出して並べて」


 わたくしは、しばらくその話を頭の中で置いていた。


 逆上して、自分から全部出して並べる。


 人は、隠していないと言いたいときに、いちばん多くのものを出す。送別の宴の広間で、わたくしは殿下に「もう一度リヴァンヌ語で仰ってください」と申し上げた。あれも、出させる形のひとつだった。


 窓の外は暗い。使節の滞在は、あと四日ある。

【通詞の覚え】盗んだ紙は、本物でも証拠になりません。出どころが濁ると、書いてある中身まで濁って見えます。


調べても何も出ない三日間、というのを省かずに書きました。


次話――アシェ卿が、読めない紙を一枚持ってまいります。盗んだのではございません。

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