第18話 求婚は、訳さずにお断りいたします
三日目の交渉は、午前で終わった。
残りの議題は書面のやりとりで足りる、というのが双方の見解である。使節の滞在はあと七日あるが、実質はこれで済んだ。
残った日数を、使節はどう使うのか。侍従長はしきりに気にしていた。用が済んだのに七日いるというのは、外交では何かの合図になる。
わたくしは、合図ではないと思っていた。この方は帰る理由を作れないだけだ。詫びに来て、迎えに来て、その両方の返事をもらっていない。もらわずに帰れば、行った意味がなくなる。
午後、中庭で殿下に呼び止められた。
わざとらしくない。廊下から庭へ出たところに立っておられて、通りかかったこちらを待っていた形になる。用意はされているが、押しつけてはいない。この方はそういう間合いが上手い。
「シャルロット」
「殿下」
「昨日の答えを、まだ聞いていない」
わたくしは足を止めた。
「通詞としてお招きくださるという件でございましょうか」
「それもある」
殿下は、庭の石の縁に手を置かれた。
「もうひとつは、私の妻としてだ」
風が吹いて、庭の木が鳴った。
「殿下。婚約は解かれております」
「解いたのは魅了にかかった私だ。解き直す権利はある」
「解き直す、というお言葉は、リヴァンヌ語にはございません」
殿下が眉を寄せられた。
「なんの話だ」
「ヴェルネ語には『やり直す』という言い方がございます。リヴァンヌ語にも似た形はありますが、あれは工事や書き物に使うもので、人と人の関係には使いません。あちらでは、一度終わったものは終わったものとして数えます」
「言葉の話をしているのではない」
「わたくしは言葉の話しかできません」
殿下は、しばらくこちらをご覧になっていた。
「……君は、私を許さないつもりか」
その問いに、わたくしは少し考えた。考えたのは答えではなく、答え方である。
「殿下。許す、許さないという話を、わたくしはもう考えておりません」
「なぜだ」
「考えるのをやめたからでございます」
わたくしは石の縁から二歩離れた。
「三年、わたくしは殿下のことを考えておりました。何を仰りたいのか、どこまでが本心か、どこからが魅了か。帰りの道中も、帰ってからも考えました。境目が分かれば恨む相手が決まる、決まれば楽になると思っておりましたので」
殿下は何も言われなかった。
「境目は、先日の広間で見えました。見えたところで、楽にはなりませんでした」
「では、」
「ですから、やめました」
わたくしは殿下を見た。
「殿下が何者であるかは、殿下のお仕事でございます。わたくしの仕事ではございません。わたくしの仕事は、この城の執務棟で、月に四十枚の文書を読むことでございます」
殿下の顔が、わずかに動いた。怒りではなかった。怒られた方が、たぶん、この方には楽だったのだろう。
「四十枚の文書」
「はい」
「王女がやることか」
「王女には、いま他にやることがございませんので」
これは嫌味ではない。事実である。
「シャルロット。君はリヴァンヌで三年を無駄にした。ここでもう三年、書記の隣で紙を読んで、それで何になる」
「何にもならないかもしれません」
わたくしは頭を下げた。
「けれど、そこはわたくしが決める場所でございます」
殿下は、それ以上仰らなかった。
この方の側から見れば、わたくしの返答は筋が通っていない。位も給金も席も用意され、しかも詫びまで受けている。断る理由が見当たらないはずだ。実際、この城の廷臣に聞かせれば、半分は断る方がおかしいと言うだろう。
筋が通っているかどうかで決めるなら、行った方がよい。わたくしは三年、筋の通る方を選んで暮らしてきた。選び続けた先が、あの謁見の間の壇の下である。
庭を出るとき、一度だけ振り返った。殿下はまだ石の縁のところに立っておられた。こちらを見てはいなかった。
その姿を見て、わたくしは自分でも意外なことを思った。この方は、たぶん、本当に迎えに来たのだ。
魅了が解けて、宮廷の調べが付いて、詫びるべきだと判断して、それで来た。判断は正しい。手順も正しい。ただ、その全部が「自分の落ち度をどう畳むか」という形をしている。
畳まれる側のことは、最初から入っていない。悪意ではない。悪意なら、まだ話が早かった。
庭の砂利を踏みながら、わたくしは自分の胸の内を点検していた。惜しいという気持ちが、少しはあるだろうと思っていたからだ。
無かった。
無かったことに、わたくしは少し驚いた。三年の輿入れ支度と、三年の宮廷暮らしと、そのぜんぶを合わせても、いま石の縁に残してきたものは何も引っかかってこない。引っかかるものが無いというのは、たぶん、最初から自分の持ち物ではなかったということだろう。
執務棟へ戻ると、書記が紙を差し出した。
「殿下、この一枚だけ、どうにも」
受け取って、目を落とした。
リヴァンヌ側から回ってきた覚書の写しである。関税の条項が並んでいて、その最後に日付があった。
日付が、合わない。
この覚書は、今回の交渉で読み合わせたものと同じ内容だ。同じ内容の紙が、三日前の日付で作られている。
交渉が始まる前に、もう書かれていた。
【通詞の覚え】「やり直す」に当たる語が無い国もございます。無い語は訳せません。訳せないものは、たいてい、その国の人が要らないと決めたものです。
断る場面は、怒鳴らせない方が難しゅうございます。
次話――日付の合わない紙が一枚ございました。同じ内容の書状が、もう一通どこかにあるということでございます。




