第17話 兄が最期に言った言葉を、いま訳します
その晩、わたくしは厩へ行った。
ヴァンサン卿は馬房の前で、鞍の革を油で拭いていた。日が落ちてからやる仕事ではないが、この人は手を動かしていないと落ち着かないらしい。
「アシェ卿」
「殿下。こんな刻限に」
「お願いがございます」
わたくしは兄の帳面を持っていた。それを、灯りの下に置いた。
「兄が最期に仰った言葉を、聞かせてくださいませ」
ヴァンサン卿の手が止まった。
「……七年、誰にも申しておりません」
「なぜでございますか」
「意味が分からないものを、人に渡せませんので」
この人らしい理由だった。
「訳せる者がおりませんでした。近衛の語学の教官はリヴァンヌ語を読めますが、話せません。音で覚えているだけのものは、書いても伝わらないと言われました」
「わたくしは話せます」
「存じております」
ヴァンサン卿は、革を置いた。それから、目を閉じずに、まっすぐ前を向いたまま、その音を口にした。
発音は崩れていた。七年、意味も分からず記憶だけで保ってきた音だ。母音の位置が二つずれている。それでも、文としては聞き取れた。
わたくしは、聞いた。
――そのままにしておけ、と言われた。だから、そのままにした。
厩の中で、馬が藁を踏む音がした。
「……殿下」
「はい」
「いま、分かりましたか」
「分かりました」
わたくしは、帳面の三頁目を開いた。兄が音で写した頁である。同じ言い回しが、そこに並んでいた。
――そのままにしておけ。
兄が最期に言ったのは、七年間、誰かに毎日言われ続けていた言葉だった。
「アシェ卿。訳します」
わたくしは、なるべく静かに言った。
「『そのままにしておけ、と言われた。だから、そのままにした』」
ヴァンサン卿は、動かなかった。
「兄は、崖の縁で馬を止めなかったのだと思います。止めるべきだと分かっていて、止めなかった。止めるなと言われていたからです」
「……誰に」
「言葉の教師に。兄はその部屋へ、七年前から通っておりました。あなたが扉の外に立っておられた、あの部屋でございます」
ヴァンサン卿は、革の上に手を置いたまま、しばらく何も言わなかった。
「自分は」
声が、掠れていた。
「自分は、馬の後ろにおりました。三頭ぶん後ろでございます。手綱を取りに行けば間に合った距離でした。行かなかったのは、殿下が――エミール様が、片手を上げて制されたからです」
「はい」
「七年、あの手を思い出しております。なぜ止められたのか、分かりませんでした。自分の腕を信用しておられなかったのだと思っておりました」
「違います」
わたくしは首を振った。
「兄は、あなたを止めたのではございません。あなたを行かせなかったのです」
「同じことでは」
「同じではございません。あの言葉は、命じられた者が命じた者へ返す形で言われております。『言われた。だから、そのままにした』――これは、報告でございます」
ヴァンサン卿が、こちらを見た。
「報告は、聞く相手がいなければ成り立ちません。兄はあの瞬間、自分に命じた者へ向けて喋っております。あなたに向けてではありません。あなたを巻き込まないために、手を上げられたのでしょう」
厩の灯りが、風で一度揺れた。この人は、しばらく黙っていた。
それから、片手で顔を覆った。声は出なかった。肩も震えていない。ただ、手をそこに置いて、動かなかった。
わたくしは何も言わずに待った。
七年ぶんの言葉を、わたくしは一分で渡した。渡すのに一分しかかからないものを、この人は七年抱えていた。訳せる者が一人もいなかったというだけの理由で。
この城には言葉のできる人間が何人もいる。父上の書斎には辞書もある。それでも七年、誰もこの人に手を貸さなかった。貸さなかったのは意地悪ではない。近衛の見習いが持っている音の記憶を、わざわざ訳してやろうと思う者がいなかっただけだ。
人の困りごとは、たいてい誰かの手の届く場所にある。届く場所にあるのに、届けようとする者がいないだけで、何年でもそこに残る。
やがて、ヴァンサン卿は手を下ろした。
「殿下」
「はい」
「ありがとうございます」
「お礼を言われることではございません」
「言わせてください。七年、自分が悪いのだと思っておりました。悪くないと言われたのではなく、何が起きたかを教えていただきました。そちらの方が、ずっと」
この人は、そこで言葉を探して、見つけられなかったらしい。
「……ずっと、いいものです」
帰り際、この人は馬房の柵に手を掛けて言った。
「殿下。ひとつ伺ってよろしいですか」
「はい」
「エミール様は、なぜその方の言うことを聞いておられたのでしょう」
わたくしは少し考えた。
「聞いていたのではないと思います。聞かされていたのでもございません。……あの言い回しは、褒める形をしております。毎日褒められて、そのまま続けろと言われ続けたら、続けるのが自分の意思のように見えてまいります」
「意思でないものが、意思に見える」
「はい。魅了というのは、たぶん、そういうものでございます」
厩を出ると、空に雲がなかった。わたくしは兄の帳面を胸に抱えて、城へ戻った。七年前、あの部屋にいた人の名前を、わたくしはもう知っている。
【通詞の覚え】訳せる者が一人もいないというだけで、言葉は何年でも宙に浮きます。浮いているあいだ、誰かがその重さを一人で持っております。
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。書いていて、いちばん静かな回になりました。
次話――殿下がもう一度、求婚をなさいます。わたくしは訳さずにお断りいたします。




