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魅了に囚われた婚約者を置いて、王女のわたくしは護衛騎士と祖国へ戻ります  作者: 九条かなで


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第16話 使節は、わたくしを通詞に指名した

使節の滞在は十日でございます。十日で決着をつけねばなりません。

 交渉の席は、翌日の午前に立った。


 小広間に卓を挟んで、ヴェルネ側が四人、リヴァンヌ側が四人。議題は関税の見直しと、国境の警備の分担である。婚約の件は議題に入っていない。入れないのが礼儀だからだ。


 わたくしはヴェルネ側の後ろに立った。侍従長の指示で、通詞は卓に着かない。


「その前に、ひとつ」


 席に着くなり、オスカー殿下が口を開かれた。


「通詞は、シャルロット王女にお願いしたい」


 ヴェルネ側の四人が顔を見合わせた。


「殿下。王女殿下は当事者でいらっしゃいます」


 侍従長が言った。当然の指摘である。


「婚約の件は議題ではない。この席で王女は当事者ではない」


「それは、」


「それに、この城でリヴァンヌの公文の格を判じられるのは王女だけと伺った。違うか」


 侍従長がこちらを見た。わたくしは何も言わなかった。事実だからである。結局、わたくしが卓の端に座ることになった。


 この指名には、たぶん二つの意味がある。ひとつは、この方が本当にわたくしの仕事を必要としているということ。もうひとつは、わたくしを卓に着かせることで「当事者ではない」と両国の前に示せるということだ。


 どちらも本当だろう。この方の言い分はいつも二重になっていて、片方だけを取り出して責めることができない。三年かけて、わたくしはその作りに慣れてしまった。慣れたというのは、ほとんど負けたということである。


 交渉そのものは、退屈なほど順調に進んだ。関税の項目を一つずつ読み合わせ、数字を突き合わせる。殿下はよく準備しておられた。数字を暗記しておられて、書類を見ずに答えられる。


 三年、わたくしはこの方が有能でないと思ったことは一度もない。有能な人が、都合のよい文を組み立てる。それだけの話である。


 通詞の仕事としては、この席は易しい部類だった。数字は訳を必要としない。難しいのは条件を付ける言い回しの方で、「そのうえで」「ただし」「差し支えなければ」といった語をどう受けるかで、後々の解釈が変わる。わたくしはそこだけ丁寧に訳した。


 二度、ヴェルネ側の言い分をこちらから補って訳しそうになって、止めた。補えば通りがよくなるのは分かっている。分かっているからこそ、やってはいけない。通りをよくするために足した一語が、五年後に条項として一人歩きする。五年前の写しが、いま目の前の束になっているのと同じことである。


 昼前に、殿下の随員の一人が古い書付の束を出した。


「五年前の取り決めの写しでございます。こちらに」


 わたくしはその束を受け取って、表紙の裏を見た。書写した者の署名がある。わたくしは、そこで手を止めた。


 マルレク。国境の宿で、セレネ様が声にせずに動かした口の形と、同じ名前だった。


 あのとき、あの方の唇はゆっくり動いた。声を出さないつもりで動かす唇は、声を出すときより形がはっきりする。読ませないために扇を持ち続けた人が、扇を置いた場所で、いちばん読みやすい形をした。


 わたくしは指の腹で、その署名をなぞった。紙は五年ぶんの手垢で柔らかくなっている。何度も出されて、何度も戻された束だ。


「王女殿下?」


 随員が首を傾げた。


「……失礼を。この写しは、どなたが」


「王宮の通詞長の部屋で作らせたものでございます。五年前ですので、当時の担当が誰かまでは」


「通詞長は、いまも同じ方が」


「はい。十五年、お変わりございません」


 十五年。


 わたくしがリヴァンヌへ嫁ぐと決まったのは十三年前だ。その二年前から、その人はあの椅子に座っている。


「王女殿下」


 殿下がこちらをご覧になった。


「顔色が悪い」


「いえ」


「休むか」


「続けさせていただきます」


 わたくしは書付を卓に戻して、読み合わせに戻った。


 午後の分が終わったのは、日が傾いてからだった。ヴェルネ側の四人が退出して、部屋に殿下とわたくしと、随員が二人だけ残った。


「シャルロット」


 殿下が名前を呼ばれた。


「昨日の続きを聞いてほしい」


「議題外でございます」


「議題は終わった」


 それは、そのとおりだ。


 わたくしは卓の端に座ったまま、書類を揃えていた。揃える手を止めなかったのは、止めれば聞く姿勢になるからである。


「君の耳は、リヴァンヌ王家にとって必要なものだ」


 殿下は仰った。


「三年、私は君の仕事を軽く見ていた。あれは魅了のせいだと言うつもりはない。実際、私は見ていなかった。宮廷で誰も君の訳を確かめなかったのは、私が確かめなかったからだ」


 珍しく、筋の通った言い方だった。


「だから、迎えに来た。今度は王太子妃としてではなく、王家付きの通詞として招く。位も、給金も、席も用意する」


 わたくしは書類を揃え終えた。


「殿下」


「なんだ」


「いま仰った『必要なもの』というお言葉ですが」


 わたくしは顔を上げた。


「リヴァンヌ語では、人に使う言い方と、物に使う言い方が分かれております。殿下がお使いになったのは、後の方でございます」


 部屋が静かになった。殿下は、ご自分が何を言ったのか分かっておられない顔をしておられた。三年前と同じ顔だ。


 魅了は、もう解けている。

【通詞の覚え】人に使う言い方と物に使う言い方が分かれている国では、どちらを選んだかで相手の頭の中が分かります。選び間違いは、たいてい本音でございます。


人に使う言い方と物に使う言い方が分かれている言語は、現実にもございます。


次話――アシェ卿に、七年ぶんの言葉を訳して差し上げます。兄が最期に残した一言でございます。

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