第15話 「あれは魅了だった。だから私に罪はない」
先触れが届いたのは、帰国から二十日目の朝だった。
執務棟の机で、わたくしは他の文書と一緒にそれを開いた。リヴァンヌ王家の印がある。使節の派遣を告げる、形どおりの書面だった。
使節の名のところで、筆が指から落ちた。オスカー・ド・リヴァンヌ。王太子が、自ら使節として来る。
「殿下、いかがなさいました」
書記が顔を上げた。わたくしは筆を拾って、書面を責任者の机へ持っていった。
「これは陛下へ。至急でございます」
その五日のあいだ、城は落ち着かなかった。
他国の王太子を迎えるとなれば、部屋を整え、献立を組み、並びを決めねばならない。侍従長が三度、わたくしのところへ来た。三度とも用件は同じで、当日わたくしがどこに立つかという相談である。
「殿下は、お出になりますか」
「出ます」
「……よろしいので」
「通詞が要る席でございます。この城でリヴァンヌ語を訳せる者は三人。うち二人は執務棟の書記で、公の席の作法を知りません」
侍従長は納得しない顔で下がっていった。この人はわたくしを気遣っている。気遣いというのは、たいてい、こちらの都合ではなく気遣う側の落ち着きのために出る。
使節は五日後に着いた。
迎えの席は大広間に用意された。父上が上座で、廷臣が両側に並ぶ。わたくしは列の中ほどに立った。通詞として立つのだから、それが正しい位置である。
扉が開いて、オスカー殿下が入ってこられた。
三年見ていた顔だ。三十日ぶりに見て、まず思ったのは、痩せられたということだった。目の下に影がある。歩き方は前と同じで、右足から出ていた。
殿下は父上の前で礼をされ、それからヴェルネ語で挨拶を述べられた。相変わらず発音はきれいだった。
わたくしは列の中から、その挨拶の言い回しを追っていた。使節の口上には決まった型がある。型どおりに述べるあいだ、人は考えていない。考えていない言葉は速さが一定になる。殿下の速さは、三箇所で落ちた。落ちたところは全部、ご自分で足された文である。
形式が終わって、父上が口を開かれた。
「して、使節の御用向きは」
「詫びに参りました」
広間がざわめいた。
王太子が他国へ出向いて詫びるというのは、そう軽い話ではない。
「先般の婚約解消について、リヴァンヌ側に非があったことが判明いたしました。侍女頭セレネ・ヴァルモンの縁者が、宮廷内で禁じられた術を用いておりました。すでに調べは付いております」
殿下はそこで一度、言葉を切られた。
「私は、その術にかかっておりました」
広間が静かになった。
縁者、と仰った。
わたくしは列の中で、その一語を頭に置いた。三年、扇を上げ続けたのはご本人である。国境を越えて帳面を取りに来られたのも、宿の広間で商人の前に立たれたのもご本人だ。それが、いま縁者の後ろへ入れられている。
広間の誰も、そこを聞き返さなかった。聞き返すには、あの三年を見ていなければならない。見ていた者は、この広間にわたくししかいない。
わたくしは、列の中で自分の指を見ていた。
この方は、自分の口でそれを言った。他国の広間で、廷臣が七十人いる前で。それがどれほどのことか、この場の誰よりもわたくしが分かっている。三年、この方の体面の作り方を見てきた。
だから、次の一言を聞いたとき、わたくしは自分の耳を疑わなかった。疑うより先に、腹の底が冷えた。
「あれは魅了だった。だから私に罪はない」
殿下は、そう仰った。
ヴェルネ語だった。訳の要らない言葉である。
広間の何人かがうなずいた。うなずくのが自然な文だからだ。術にかけられていたのなら本人の罪ではない。それは筋が通っている。
父上は表情を変えられなかった。
「では、王女への詫びは」
「ですから、詫びに参りました」
「いま、罪はないと仰った」
「罪はございません。ですが、王女には迷惑をかけました。その迷惑について詫びております」
わたくしは、目の前が少しだけ遠くなるのを感じた。
罪はないが、迷惑はかけた。
この文は、成立している。文としてはどこも壊れていない。壊れていないから、反論しにくい。
三年、この方はいつもこういう文を使われた。わたくしはそれを、この方の癖だと思っていた。魅了のせいではなかったのだ。
魅了は、耳に入る言葉を変える。口から出る言葉の組み立て方までは変えない。組み立てるのは本人である。
この三十日、わたくしは何度もこう考えていた。あの三年のうち、どこまでが魅了で、どこからがこの方だったのか。境目が分かれば、恨む相手を決められる。決められれば楽になる。
いま、境目が見えた。見えたところで、楽にはならなかった。
「王女殿下」
殿下がこちらをご覧になった。三十日ぶりに、目が合った。
「あなたにも、聞いていただきたいことがある」
焦点は、合っていた。
合っていることが、はっきりと分かった。
三日前まで、わたくしは一つのことを知りたがっていた。魅了が解けたら、この方は元に戻るのだろうか。戻るなら、あの三年のうちどこまでが魅了で、どこからが本人だったのか。
答えが、いま出た。
「拝聴いたします」
わたくしは膝を折った。
列の後ろで、誰かが小さく息を吸う音がした。ヴァンサン卿の位置だ。この人は言葉が分からない。分からないまま、たぶん、わたくしの喉を見ている。
広間の廷臣たちは、いま殿下の言い分に納得しかけている。魅了にかけられていた王太子が、正気に戻って詫びに来て、王女を迎えに来た。話としてよく出来ている。よく出来た話は、細かいところを飛ばして先へ進む。飛ばされたのは「罪はない」の一言だけだ。
「王女殿下。私は、あなたを迎えに来た」
殿下は仰った。
「今度は、私の意思で言っている」
【通詞の覚え】文として壊れていない言い分ほど、たちが悪うございます。壊れていれば指させますが、通っているものは並べて見せるしかありません。
この一言を言わせるために、殿下には第一話から丁寧に喋っていただいておりました。
次話――交渉の席が立ちます。殿下はわたくしを、その席の通詞にご指名になりました。




