第14話 ミレイユの間違いが、いちばん正しかった
十三年ぶんの帳面を、部屋へ運ばせた。
全部で百八冊ある。リヴァンヌで書いた三十七冊と、ヴェルネで書いた七十一冊だ。ミレイユが三度に分けて運んで、最後は息が上がっていた。
「殿下、これ、全部お書きになったんですか」
「書きました」
「毎日ですか」
「毎日でございます。六つの春から」
ミレイユは、いちばん上の一冊を手に取って、開いて、すぐ閉じた。
「読めません」
「読めなくてよろしいのです」
わたくしは床に座って、古い方から順に並べはじめた。日付は入っている。いちばん古いものを探すのに、それほど時間はかからなかった。
表紙の擦り切れた、薄い一冊。
開くと、最初の頁に、大きな字で一行だけ書いてあった。
――ただしく つたえる
六歳の字だ。ひらがなで、線が震えている。「つ」の跳ねが逆になっている。わたくしは、その一行をしばらく見ていた。覚えていない。書いた記憶がまるでない。
六歳の記憶というのは、そういうものかもしれない。あの年のことでわたくしが覚えているのは、窓のない部屋の匂いと、机の上に紙が二枚並べてあったことくらいだ。左の紙にヴェルネ語が書いてあって、右の紙は白かった。右を埋めるのがわたくしの仕事だった。
誰かが向かいに座っていた。声は覚えている。低くもなく高くもない、急がない喋り方をする人だった。わたくしが間違えても、その人は直さなかった。間違えたまま先へ進ませて、翌日また同じところをやらせた。
けれど、これはわたくしの字である。誰かに書かされた字なら、こんなに線が乱れない。書き取りの稽古で書かされた字は、二頁目から始まっている。二頁目以降は全部、手本を写した字だ。
一頁目だけが違う。
「殿下、それは何と書いてあるんですか」
ミレイユが後ろから覗き込んだ。
「ヴェルネ語でございますよ」
「あ、ほんとだ。……ただしく、つたえる」
ミレイユは声に出して読んで、それからしばらく考えた。
「これ、リヴァンヌ語だとどう言うんですか」
わたくしは顔を上げた。
「言ってごらんなさい」
ミレイユは指を折って考えた。それから、リヴァンヌ語で言った。
――まちがえずに、わたす。
わたくしは、動けなくなった。
格は外れている。「正しく」に当たる語を、この娘は知らなかったのだ。だから「まちがえずに」で代えた。「伝える」に当たる語も知らなかった。だから「わたす」で代えた。
三か月しか習っていない娘の、語彙が足りない訳である。
その訳が、リヴァンヌ語で愛を言うときの、二つ目の言い方と同じ動詞を使っていた。
渡す。贈る。こちらから相手へ、手放して届ける形。
「……ミレイユ」
「はい。間違えましたか」
「いいえ」
わたくしは首を振った。
「間違えておりません」
正しくは別の語がある。宮廷で使うのは別の語だ。わたくしが十三年かけて覚えたのも別の語である。
けれど、六歳の子どもが「ただしく つたえる」と書いたとき、その子が思っていたのは、たぶんこの娘が言った方だ。
まちがえずに、わたす。
自分のものにしない。手の中に残さない。受け取ったものを、そのまま向こうへ渡す。
「殿下、泣いてます」
「泣いておりません」
「泣いてます」
「……そうですか」
わたくしは帳面を膝に置いた。
ミレイユは何が起きたのか分からない顔で、それでも黙って水を持ってきた。この娘は、分からないときに聞かない。聞かずに、とりあえず要りそうなものを持ってくる。三か月でリヴァンヌ語を市場の分だけ覚えたのも、たぶん同じやり方だろう。分からないまま手を出して、当たったところだけを残していく。
わたくしは十三年、その逆をやってきた。分かってから手を出す。分からないうちは書かない。おかげで一度も間違えなかったし、一度も自分の言葉を持たなかった。
六歳のわたくしは、誰に言われてこれを書いたのだろう。
書かされたのなら、手本があるはずだ。手本があれば、線は震えない。
ということは、あの日、教師は何も書かなかったのだ。何も書かずに、六歳の子に一行書かせた。それが最初の稽古だった。
わたくしはその一行を、十三年守ってきた。守ってきたつもりでいた。
守らせるために書かせたのだとしたら。
わたくしは、その先を考えるのをやめた。まだ、根拠がない。根拠のないことを頭の中で訳すのは、この仕事でいちばんやってはいけないことである。
ミレイユが帳面の山を三つに分けて、日付の順に積み直してくれた。この娘は数字なら読める。読めるものだけで仕事を組み立てるのが上手い。
夜、いちばん古い一冊だけを机に残した。
窓の外で、城下の灯りが一つずつ落ちていく。
明日、執務棟へ行けば、また文書が四十枚積んである。読んで、格を見て、返書を書く。それがいまのわたくしの仕事だ。仕事があるというのは、思っていたよりずっと足元を確かにする。三年前のわたくしは、席が用意されているのが当たり前だと思っていた。用意されない側に一度立つと、椅子の脚の数まで気になるようになる。
その仕事を、誰に教わったのかを、わたくしはまだ知らない。
【通詞の覚え】語彙の足りない人の訳は、時々、玄人の訳より正確です。言い換えるしかない人は、意味の芯を掴むしかないからでございます。
誤訳がいちばん芯を食う、というのは、実際に外国語を習っていると時々起こります。
次話――リヴァンヌから使節が参ります。先触れの名を見て、わたくしは筆を落としました。




