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魅了に囚われた婚約者を置いて、王女のわたくしは護衛騎士と祖国へ戻ります  作者: 九条かなで


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第13話 兄の部屋の埃は、七年ぶんだった

 兄の部屋は西の棟の二階にある。


 鍵は家令が持っていた。借りたいと言うと、家令は少し迷ってから渡してくれた。理由は聞かれなかった。


「お掃除は、年に二度入れております。物は動かしておりません」


「ありがとう」


 扉を開けると、埃の匂いがした。掃除を入れていても、七年ぶんの匂いは抜けない。


 部屋は思ったより狭かった。子どもの頃、ここは広い部屋だと思っていた。壁際に机があり、その上に本が積んである。窓辺に椅子が一脚。剣は掛けられていない。近衛が持っていったのだろう。


 わたくしは机の前に立った。指を置くと、天板に細く跡がつく。


 兄が死んだのは十七のとき、わたくしは十二だった。落馬だと聞いている。狩りの帰りに馬が驚いて、崖の縁で振り落とされたのだと。


 葬儀のあと、わたくしは三日で輿入れの稽古に戻っている。誰も止めなかったし、止める理由もなかった。


 いま思うと、あの三日は短い。十二の子どもが兄を亡くして、三日で机に戻る。戻れたのは、戻る場所が用意されていたからだ。稽古の紙は毎日きちんと二枚並べてあって、わたくしが座れば始まる。悲しむ時間を作らないというのは、たぶん優しさの一種として通るのだろう。通るから、誰も止めない。


 兄の顔を最後に見たのは棺の中で、そのときも、わたくしは翌日の書き取りのことを考えていた。そういう自分を七年、恥じたことがない。恥じる暇がなかったからである。


 机の上の本を、一冊ずつ手に取ってみた。歴史書が二冊、馬術の指南書が一冊。それから、いちばん下に薄い帳面があった。


 開くと、リヴァンヌ語だった。


 わたくしは椅子に座った。


 兄は、リヴァンヌ語を習っていない。ヴェルネの王子は隣国の言葉を習わない。習うのは嫁ぐ娘だけである。


 帳面には、音を写した文字が並んでいた。意味は取っていない。聞こえたとおりに書き取ってある。わたくしが最初の年にやっていたのと同じやり方だ。


 誰かが喋ったのを、意味も分からず写している。


 二頁目、三頁目と進んだ。同じ言い回しが繰り返し出てくる。挨拶ではない。指示の形だ。


 ――そのままにしておけ。

 ――気づかなくてよい。

 ――お前は、よくやっている。


 三つ目のところで、指が止まった。


 よくやっている、という言い方。この形は、目上が目下に使う。褒めているように聞こえて、実際は「そのまま続けろ」という意味の方が強い。稽古で何度も直された言い回しだ。


 兄は、これを誰かから毎日のように言われている。言われて、意味が分からないまま、音だけを写した。


 写しておこうと思ったということは、引っかかってはいたのだ。意味が取れないのに耳に残る言葉というものがある。相手の口調と、そのあとの自分の気分だけが残って、中身が残らない。兄はそれを七年前に紙へ移した。移したまま、答え合わせをする前に死んだ。


 わたくしは帳面を閉じて、しばらく机を見ていた。


 この字は、たしかに兄のものである。手紙を何通かもらったことがあるので分かる。線の入りが浅く、右上がりに流れる癖まで同じだ。書いた本人が意味を知らないまま、耳に入った音だけを紙に残していた。


 意味を知らない者が音だけを写すのは、稽古としては正しい。わたくしも最初の一年はそうだった。ただ、稽古なら手本があり、翌日に訳の答え合わせがある。この帳面には答え合わせの跡がひとつもない。ひたすら音だけが並んで、途中で終わっている。


 夕方、執務棟から戻る途中で、ヴァンサン卿と行き合った。中庭で馬の様子を見ている。


「アシェ卿」


「殿下」


「兄の部屋に入りました」


 この人の手が、馬の首の上で止まった。


「机に、帳面がございました。リヴァンヌ語を音で写したものです。兄が書いたものと思われます」


 ヴァンサン卿は何も言わなかった。


「アシェ卿。七年前、兄の近くに、リヴァンヌから来た者はおりましたか」


「……おりました」


「どなたです」


「名は存じません。言葉の教師と伺っておりました」


 わたくしは息を吸った。


「兄の、でございますか」


「いいえ。殿下の、と」


 馬が首を振った。


「殿下が輿入れの稽古を始められた年に、王宮へ入った方でございます。奥の棟におられて、めったに出てこられませんでした。ただ、第一王子殿下は時々、その部屋へ行っておられました」


「兄が」


「はい。自分は扉の外に立っておりました。中の話は聞こえません。……いえ」


 この人は、そこで言い直した。


「聞こえてはおりました。意味だけが、分かりませんでした」


 わたくしは、その場に立ち尽くした。


 七年前、扉の外にこの人がいて、中に兄がいて、その向こうにわたくしの教師がいた。


 わたくしは、同じ建物の、別の部屋にいた。毎日その教師のところへ通っていたのに、兄が来ていることを一度も知らなかった。


「アシェ卿」


「はい」


「兄が最期に仰った言葉を、覚えておいでですか」


 ヴァンサン卿は、こちらを見なかった。


「覚えております」


「ヴェルネ語でしたか」


「いいえ」


 この人は馬の首を撫でて、それから言った。


「ですので、七年、意味が分かっておりません」

【通詞の覚え】音だけを写した帳面は、書いた人が意味を知らなかったという証拠になります。知っていれば、人は必ず訳を書きます。


お読みくださりありがとうございます。


次話――わたくしの帳面の、いちばん最初の頁を開きます。六歳の字が一行だけ残っておりました。

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