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魅了に囚われた婚約者を置いて、王女のわたくしは護衛騎士と祖国へ戻ります  作者: 九条かなで


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第12話 王宮に通詞の席をひとつ、いただけますか

 三日経った。


 その三日で、わたくしがしたことは何もない。朝は部屋で食事をして、昼はミレイユと城内を歩き、夕方に本を読んだ。誰からも呼ばれなかった。


 帰国した王女には、役目がない。嫁いだ先を出た娘というのは、名簿のどこにも入らないのだ。


 城の中には、名簿というものが何十とある。朝の食卓の名簿、儀式の並びの名簿、季節ごとの狩りに呼ぶ者の名簿。三年前まで、わたくしの名はそのどれにも入っていた。入っていたことを意識したこともなかった。名簿は空気に近い。抜かれてはじめて、それがあったと分かる。


 二日目に、ミレイユが厨房から食事を運んできた。運んでくるということは、食卓の名簿にわたくしの席がないという意味である。この娘はそれを言わなかった。言わずに、毎食きちんと運んできた。


 三日目の夜、わたくしは自分が何をすべきかを考えた。誰かに席を作ってもらうのを待つ、という選択肢が最初に浮かんで、すぐ消えた。三年待って、誰もわたくしの言葉を確かめには来なかった。待つのはもう十分にやった。


 四日目の朝、わたくしは執務棟へ行った。


 外務を扱う部屋は北の一階にある。扉を開けると、書記が三人と、責任者らしい中年の男が顔を上げた。


「王女殿下。……何かご用でございましょうか」


「席をひとつ、いただきに参りました」


 男は目を瞬いた。


「席、と申しますと」


「通詞の席でございます。この部屋にリヴァンヌ語を読める者は何人おいでですか」


「……二人でございます」


「文書はどれくらい参りますか」


「月に、四十ほど」


「二人で四十でございますね」


 わたくしは机の上の書類の山を見た。積み方で分かる。処理が追いついていない山と、処理を諦めた山は、傾き方が違う。


「わたくしを三人目に入れてくださいませ。給金は要りません」


 男は困った顔をした。当然だ。王女を書記の隣に座らせて、机を出せと言われている。


「殿下。お立場が」


「立場がございませんので、伺っております」


 わたくしは、なるべく静かに言った。


「わたくしは三年、リヴァンヌの宮廷におりました。あちらの公文の格を知っております。文書の真偽を、印ではなく文の格で判じられます。この部屋に、それができる者はおいでですか」


 男は答えなかった。


 答えないというのは、いないということだ。


「三日でよろしゅうございます。三日で役に立たなければ、二度と参りません」


 その日の午後、机が一つ運び込まれた。


 窓際の、いちばん隙間風の入る位置だった。それでよかった。位置を選べる立場ではない。


 書記の三人は、最初の半日ほど、わたくしに口をきかなかった。王女が隣に座っているのだから当然である。話しかけてよいものかどうか、判断の材料がない。わたくしも黙って紙を読んでいた。


 最初の仕事は、交易商からの請願書だった。リヴァンヌの商会が、ヴェルネ側の関税の扱いについて申し立てている。書記がすでに訳を付けていて、それを読んだ。


 訳は間違っていなかった。ただ、一箇所だけ、格が落ちていた。


「この行でございますが」


 わたくしは書記に紙を戻した。


「原文は要請の形ではなく、確認の形でございます。訳文では『減じていただきたい』となっておりますが、原文は『減じる取り決めであったと承知している』でございます」


 書記が首を傾げた。


「同じでは」


「同じではございません。要請でしたら、こちらは断れます。確認でしたら、断ると同時に『そんな取り決めはない』と言わねばなりません。言わなければ、認めたことになります」


 書記の顔が変わった。


「……この商会、去年も同じことを」


「たぶん、毎年でございましょう。少しずつ形を変えて出しておいでです。三年続けて誰も否定しなければ、それは慣例になります」


 男が奥から出てきて、紙を覗き込んだ。


 その日の夕方、返書が出た。「そのような取り決めは存在しない」という一行が入った返書である。書記が書いて、責任者が印を押した。わたくしは何も書いていない。


 三年、わたくしは自分の訳が正しいことを証明しようとして、一度も証明できなかった。この部屋では誰も証明を求めない。求めないのは信用しているからではなく、間違っていれば来年の関税で分かるからである。仕事というのは、そういう形で人を試す。証人はいらない。結果が出る。


 部屋を出るとき、責任者の男が追ってきた。


「殿下。明日も、おいでいただけますか」


「三日と申し上げました」


「……三日と言わず」


 わたくしは頭を下げて、廊下へ出た。


 勝ったとは思わなかった。あの商会は来年もまた出してくる。来年の紙を誰が読むかは、まだ決まっていない。


 部屋へ戻ると、ミレイユが窓を拭いていた。


「殿下、お顔が」


「顔が」


「なんだか、こう、少し」


 ミレイユは適当な言葉を探して、見つけられずに、リヴァンヌ語で言った。


 ――ごはんを食べた顔をしています。


 やはり格が外れている。外れているが、意味は通った。


「そう見えて」


「はい。朝はしていませんでした」


 わたくしは窓の外を見た。城下に灯りがつきはじめている。三日前と同じ並びである。


 同じ並びの中に、机が一つ増えた。


 それだけのことだが、それだけのことに、わたくしは三日かかっている。

【通詞の覚え】要請と確認は形が似ています。似ているものほど、返し方を間違えると三年後に効いてまいります。


地味な回でございますが、作者はこの机が増える場面をいちばん書きたかったのです。


次話――兄の部屋の鍵を借りました。七年、誰も入っていないそうでございます。

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