蛇姫様
霊峰の洞窟の最奥——忌々しい黒曜石の柱が立つ邪悪な空間に、僕たちは再び戻ってきた。
「アヒャ……アヒャヒャヒャヒャッ!!」
僕たちの気配を察知したのか、天井の闇から真っ白い肌の少女——祟り神が、クモのようなおぞましい動きで這い下りてきた。
片腕は千切れかけ、体は焼け焦げているにもかかわらず、そのギザギザの歯を剥き出しにして、一切の躊躇なく僕の喉笛めがけて飛びかかってくる。
「アニチャン、危ない!」
「下がっておれ、アレン!」
「待って! 二人は手出ししないで!」
僕は前に飛び出そうとしたゴウとクオンを制止し、真っ直ぐに迫り来る少女を見据えた。
そして、彼女の凶刃が僕に届く直前——。
「【限定空間収納】——『状態固定』!」
僕のスキルが発動し、少女の周囲の空間そのものを四角く切り取り、その内部の時間を完全に停止させた。
空中に飛びかかった体勢のまま、少女はピタリと静止する。
僕のスキルは「状態を保存して収納する」ものだが、対象が強力な魔力や抵抗意志を持っている場合、収納できずに一瞬だけその場に「固定」する裏技的な使い方ができる。
勇者パーティー時代、強敵の動きをほんの数秒だけ止めるために使っていた、僕だけの防御手段だ。
空中で固まりながらも、少女の目は赤く血走り、ギロリと僕を睨みつけている。
僕は深呼吸をして、固定された彼女の目の前にゆっくりと歩み寄った。
そして、空間固定を解いて説得する……のではなく、【ワン・キューブ】のインベントリから『あるもの』を取り出した。
「——空間解除」
パリン、と見えない壁が割れる音がして、少女の時間が動き出す。
勢い余って地面に転がった彼女が、再び鋭い牙を剥き出しにして襲いかかろうとした、その瞬間。
「……捧げ物です」
僕は、用意していたそれを、彼女の足元にそっと置いた。
それは、木を削って作られた、可愛らしい『男の子の人形』だった。
ふもとの村で長と話した時、昔は雨乞いの際に「生贄の代わりとして、人の形をした木の人形を捧げていた」という記録をこっそり調べて、僕の【ワン・キューブ】の中の木材と魔道具のナイフで、全力で手作りしたものだ。
少し不格好だけれど……どことなく、僕に顔立ちが似てしまったのはご愛嬌である。
「村人たちからの言伝です。『今まで、ありがとうございました』と」
僕は、真っ直ぐに彼女の目を見て、はっきりと嘘をついた。
身勝手な村人たちがそんなことを言うはずがない。でも、彼女に必要なのは「討伐」でも「説得」でもなく、彼女が捧げた優しさが、誰かにちゃんと届いていたという『嘘』だと思ったから。
「……あ、ア?」
少女の動きがピタリと止まった。
足元に置かれた不格好な木の人形を見つめる。
ギザギザの歯がカタカタと震え、血走った赤い瞳から、ポロリ、と一粒の涙がこぼれ落ちた。
「ああ……アア……」
彼女は崩れ落ちるように人形を抱きしめ、子供のように声を上げて泣き始めた。
忘れていたのだ。自分が何のために雨を降らせたのか。自分が本当は誰のために、この過酷な霊峰で孤独に耐えていたのかを。
狂おしいほどの泣き声が響く中、突如として、少女の体が眩い光に包まれた。
どす黒かった邪悪な霊気が、春の雪解けのように浄化されていく。
光が収まった後、そこにいたのは、悍ましい祟り神ではなかった。
「……まぼろし、か」
透き通るような白い肌、流れるような銀糸の髪。
そして、下半身は美しい白蛇の鱗で覆われた、神々しい『蛇の姫神』がそこにいた。
彼女は愛おしそうに人形を胸に抱きながら、静かな、けれど威厳のある瞳で僕を見つめた。
「其方は……もしや、太郎兵衛か?」
すうっと近づいてきた彼女の冷たくも柔らかい手が、僕の頬にそっと添えられる。
「……いいえ。アレンと申します」
「アレン……そうか。もう随分と、時が経ってしまったのだな」
姫神は寂しそうに微笑み、僕の頬を撫でた。
「わらわと太郎兵衛は、かつて恋仲であった。あやつは村を救うため、わらわに祈りを捧げ、そして……。其方、あやつによく似ておる」
「そう、だったんですね」
だから、あんなにも必死に雨を降らせたのか。愛する人を、その人が愛した村を救うために。
「姫様」
僕は、彼女の冷たい手に自分の手を重ねて、優しく言った。
「ここはもう、あなたがお座す土地にはあらざる場所になってしまっております。……よろしければ、僕たちと一緒に、新しいお座主(居場所)を探しに行きませんか?」
僕の言葉に、姫神は目を丸くし——やがて、春の陽だまりのように柔らかく、美しい笑みを浮かべた。
「……ふふ。太郎兵衛と同じ、お人好しな瞳じゃ」
彼女の体が再び淡い光に包まれ、次の瞬間、シュルルッと小さな美しい白蛇の姿に変わった。
そして、僕の腕から肩へと這い上がり、首元にひんやりと心地よく巻きついたのだ。
「キュイッ!?」
「なっ……! こら、白蛇! どこに巻き付いておる! 馴れ馴れしいぞ!!」
レンが驚いて羽ばたき、クオンが狐耳をピンと立てて激怒する。
「よいではないか。わらわはアレンの『お世話』になることに決めたのじゃ。其方らのような毛むくじゃらより、わらわの冷たい鱗の方がアレンも心地よかろう?」
蛇の姿のまま、姫神はクオンたちに向かってツンとすました声で返す。
「な、毛むくじゃらじゃと!? この妾の最高級の毛並みを……ッ! アレン、その蛇を引き剥がせ! 妾の尻尾マフラーの方が絶対に温かくて気持ちいいはずじゃ!」
「オデも! オデもアニチャンの肩乗る!!」
「ゴウが乗ったら僕が潰れちゃうからね!?」
暗く冷たかった洞窟の最奥で、白き古龍と、九尾の妖狐と、巨大な赤鬼と、美しい蛇の神様による、僕を巡る大騒ぎが始まった。
村人たちの理不尽には少し腹が立ったけれど。
こうしてまた一つ、守るべき小さな(?)命が加わった、騒がしくて温かいモフモフ&スローライフ。
これなら、東の果ての旅も、悪くないかもしれない。
(……まあ、王都に置いてきた『彼女たち』が、今頃どうしているかは、考えないでおこう)
僕は巻きつく蛇のひんやりとした感触と、すり寄ってくるモフモフたちを撫でながら、小さなため息と共に笑い声をこぼしたのだった。
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