祟り神
洞穴の最奥——開けた巨大な空間に足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような冷気と、どす黒く凄まじい霊気の渦が僕たちを包み込んだ。
息をするだけで胸が苦しくなるような、完全な邪悪の空間。
「……アレン、気をつけるのじゃ。ここが諸悪の根源、マナの掃き溜めじゃな」
クオンが九つの尾を逆立てて警戒する先、空間の中央には異様な光景が広がっていた。
禍々しい黒曜石の柱に、薄布を纏った真っ白い肌の少女が磔にされ、気を失ってうなだれている。
そしてその足元には、少女を監視するかのように、どす黒い怨念を纏った巨大な鎧武者が立ち塞がっていた。
「あの子……! ゴウ、レン、あの武者をお願い!」
「おう! アニチャンはオデが守る!!」
「キュイイイッ!」
僕の合図とともに、ゴウが地響きを鳴らして突進し、レンが不可視の暴風を放つ。
深層のボスであろう鎧武者は、抜刀する間もなくレンの風で装甲を剥がされ、ゴウの丸太のような拳をまともに食らって、一瞬でただの鉄屑となって吹き飛んだ。
「大丈夫!? 今助けるから……ッ!」
僕は急いで柱に駆け寄り、【限定空間収納】から取り出したミスリルのナイフで少女を縛る黒い蔦を切り裂いた。
力なく崩れ落ちてきた、氷のように冷たく白い体。
その小さな肩を抱きとめた、まさにその瞬間だった。
——ビクリ、と。
少女の体が不自然に跳ね、うつむいていた顔がゆっくりと持ち上がった。
「……アヒャ」
美しいはずの顔は、おぞましい歓喜に歪んでいた。
口が耳元まで裂けるように開き、そこにはサメのような鋭いギザギザの歯がびっしりと並んでいる。
「アヒャハハハハハハハハハハッ!!!」
少女は狂ったように甲高い笑い声を上げながら、僕の喉笛めがけてその凶悪な顎を突き出してきた。至近距離。避ける時間は——ない。
「アニチャン!!」
僕の視界を、赤い巨体が覆い隠した。
「ガアァァァッ!!」という獣のような叫び声とともに、少女のギザギザの歯が、ゴウの突き出した極太の右腕に深く、無慈悲に食い込む。鮮血が吹き出し、ゴウが苦悶の声を漏らした。
「ゴウッ!?」
「オデは、へーきだ!! 狐、今だ! やれェ!!」
腕を噛みちぎられそうになりながらも、ゴウは残った左腕で少女の体をガッチリと抱え込み、その動きを完全に封じ込めた。
「ッ……加減はせんぞ、赤鬼!」
後方に飛んだクオンの周囲に、これまでにないほど巨大で高密度の青白い狐火が九つ展開される。
「消え失せよ!!」
クオンの叫びとともに放たれた極大の妖術が、少女の体に直撃した。
凄まじい爆発音と閃光。爆風が洞穴を揺らし、ゴウの拘束から弾き飛ばされた少女の体が岩壁に激突する。
並の魔物なら灰すら残らない威力。しかし——。
「アハッ……アヒャヒャヒャヒャヒャッ!!」
土煙の中から現れた少女は、体の半分が焼け焦げ、片腕が千切れかけているにもかかわらず、全く痛みを感じていないかのように狂い笑っていた。
そして、その悍ましい笑顔のまま、天井の闇へとクモのように這い上がり、あっという間に洞穴の奥深くへと逃げ去ってしまった。
「待てッ……! 逃げ足の速い奴じゃ……!」
「キュルルルッ!」
「クオン、レン、追わなくていい! それよりもゴウの腕が!」
僕は急いでゴウの元へ駆け寄った。
彼の太い右腕は骨が見えるほど深くえぐられ、大量の血が流れ落ちている。
「アニ、チャン……ケガ、ない……? よかった……」
「馬鹿っ、僕を庇ってこんな……!」
すぐに【ワン・キューブ】を展開し、最高純度の霊薬を取り出して傷口にドバドバと振りかける。さらに清潔な包帯を巻き、痛みを散らすための冷たいポーションも飲ませた。
数秒で傷は完全に塞がり、ゴウの顔色も赤みを取り戻す。
「ふぅ……これで大丈夫。でも、無茶しちゃ駄目だよ」
「えへへ……。オデ、絶対守るって約束したから」
照れくさそうに笑うゴウの頭を撫でながら、僕はホッと息を吐いた。
それにしても、あの真っ白い肌の少女。
ただの魔物には見えなかった。あの底知れない怨念の塊のような気配は一体——。
「……あれは、何だったんだろう?」
僕が呟くと、ゴウは少しだけ悲しそうな顔をして、ぽつりと言った。
「あいつ……昔は、この辺り一帯を守ってくれてた、優しい神様だったんだ」
「え……神様?」
「うん。オデ、子供の頃に見たことある。でも……人間たち、あいつのこと忘れちゃった。村にあったあいつの祠も壊して、誰もありがとうって言わなくなった」
ゴウの言葉を引き継ぐように、クオンが静かに歩み寄ってきた。
「『祟り神』じゃな。信仰を失い、忘れ去られ、居場所を奪われた土着の神は、やがてその悲しみと怒りから反転し、悪を為す邪悪な存在へと堕ちてしまう。あやつはもう、己が何者であったかすら忘れておろう」
人間から忘れられ、祠を壊され、孤独の中で正気を失い、あんな暗く冷たい洞穴の奥底で魔物のように成り果ててしまった神様。
狂ったように笑う彼女の顔の奥に、どれほどの絶望が隠されていたのだろうか。
「……そんなの、酷すぎる」
気づけば、僕は強く拳を握りしめていた。
僕だって、勇者パーティーで誰からも認められず、存在を忘れられかけていた時は、心が壊れてしまいそうだった。
でも、彼女には手を引いてくれる人が誰もいなかったのだ。
「助けなくちゃ」
僕の言葉に、クオンが呆れたように耳を伏せた。
「正気か、アレン? あやつは先ほど、お主の喉笛を食いちぎろうとしたんじゃぞ」
「でも、本当は悪い子じゃないんでしょう? ゴウのことも噛んだし、怪我もさせちゃったけど……あのまま、暗いところで一人ぼっちにさせておくなんて、僕にはできないよ」
僕が真っ直ぐに見つめると、クオンは「やれやれ……」と深くため息をつき、ゴウは「アニチャンは、やっぱりすげえや」と嬉しそうに笑った。レンも「アレンがそう言うなら!」とばかりに翼を広げる。
「原因が『忘れられたこと』と『壊された祠』なら、それを元に戻せば、彼女も元の優しい神様に戻れるかもしれない」
僕は洞穴の出口——ふもとにあるであろう人間の村の方向を見据えた。
ただ美味しいご飯を作って、のんびりスローライフを送るつもりだったけれど。
目の前で困っている(?)子を見捨てられないのが、僕という人間の性分らしい。
「よし、みんな。山を降りて、人間の村に行こう」
お人好しなサポーターと、規格外のモフモフ&赤鬼パーティーは、祟り神となってしまった少女を救うため、ふもとの村へと足を踏み出すのだった。
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