大妖クオン
東の果て、大和国。
どこまでも連なる霊峰の深い森には、これまで旅してきた大陸とは違う、怪談や古い伝承に語られるような神秘的でひんやりとした空気が満ちていた。
むせ返るような濃密なマナが漂う中、僕を背に乗せたレンが大きな翼を畳み、苔むした開けた場所へと静かに降り立つ。
「お疲れ様、レン。この辺りで少し休もうか」
僕がレンの純白の首筋を撫でた、まさにその時だった。
突如として、森のざわめきがピタリと止み、恐ろしいほどの静寂が辺りを包み込んだ。
霧がかった木立の奥から、黄金色の落ち葉を踏みしめる優雅な足音と共に『それ』は現れた。
燃え上がるような金色の毛並み。宙を揺蕩う九つの巨大な尾。周囲の空間そのものを歪ませるほどの、圧倒的で濃密な妖気。
それは、大和国の古い書物で読んだことのある大妖——九尾の狐そのものだった。
「……グルルルルルッ!」
いち早く危険を察知したレンが僕を庇うように前に立ち塞がり、喉の奥で地の底から響くような威嚇音を鳴らす。
対する九尾の狐も、金色の双眸に鋭い敵意を宿し、周囲に青白い狐火をいくつも浮かび上がらせた。伝説の古龍の幼生と、大和国の大妖。二つの規格外の力がぶつかり合えば、この霊峰の半分は消し飛んでしまうだろう。
「やめて! 戦わないで!」
僕は咄嗟に、一触即発の二人の間に割って入った。
突然の僕の行動に、九尾の狐は僅かに目を見張り、レンも驚いたように鳴き声を上げる。
「レン、駄目だよ。僕たちは神龍様に会うためにこの国にお邪魔しているんだ。勝手に喧嘩しちゃ駄目だ」
「キュ、キュウ……」
「それに、あなたも」
僕は狐火に囲まれる巨大な九尾の狐に向き直り、できるだけ柔らかい声で語りかけた。
「そんなに怖い顔をして……もしかして、お腹が空いているんですか? それとも、長旅で疲れた僕たちの気配に驚いてしまったのかな。どうか、仲良くしてくれませんか」
大妖に向かって「お腹が空いているのか」と尋ねる人間は、世界広しといえど僕くらいだったかもしれない。
九尾の狐は毒気を抜かれたように狐火を消し、怪訝な顔で僕を見下ろした。
僕はすかさず【限定空間収納】を展開し、完璧な温度と湿度で保管されていた特製のフルーツタルトと、甘い香りのする紅茶を取り出して、急拵えのテーブルに並べた。
「警戒しないでください。美味しいお茶とお菓子がありますよ。……ほら、こっちにおいで」
恐る恐る近づいてきた九尾の狐がタルトを一口食べた瞬間、その金色の瞳がまん丸に見開かれた。
それを合図に、パーティー時代にヒロインたちの髪を梳かすことで極められた僕の特技——『完璧な力加減と温度のブラッシング』を始めた。
タルトに夢中になっている隙に、ワン・キューブで適温に温めた専用のブラシを取り出し、巨大な黄金の毛並みを優しく梳き始めた。
「……っ!? な、人間、貴様なにを……あ、そこ、そこは……くぅんっ」
最初は身を強張らせていた九尾の狐だったが、毛並みの絡まりが解け、心地よい温かさが全身を包み込むと、開始数十秒でその威厳は完全に崩れ去った。
「あぁ……そこじゃ、その耳の裏をもう少し……」とだらしない声を漏らし、最後には僕の足元で仰向けになり、九つの尻尾をぱたぱたと幸せそうに揺らす始末だった。横ではレンが「僕も撫でて!」と言わんばかりに鼻先をすり寄せてきたので、僕は両手を使って二匹のモフモフを存分に堪能した。
やがて、お腹も満たされ毛並みもツヤツヤになった九尾の狐は、名残惜しそうに身を起こした。
「……こほん。人間の分際で、なかなか見事な手腕であった」
すっかり緩みきった顔を引き締め、彼女はあくまで大妖としての矜持を保とうと胸を張る。
「妾の名はクオン。この霊峰を統べる九尾の妖狐じゃ。今日のところは、その美味なる菓子と……極上の手さばきに免じて、特別に見逃してやろう!」
捨て台詞なのかなんなのかわからない言葉を残し、クオンは黄金の尾を揺らしながら深い森の奥へと姿を消していった。
「ふふ、案外いい子だったね。さて、今日はもう暗いし、ここにテントを張ろうか」
僕はワン・キューブから、魔獣の毛皮で作った特注の断熱テントとふかふかの寝袋を取り出し、あっという間に快適な野営地を完成させた。迷宮探索の時にヒロインたちのために作った、どんな環境でも王都の高級宿と同等の睡眠を約束する『絶対に風邪を引かせないテント』だ。
温かいスープを飲んでから、僕はレンの広くて温かいお腹に寄りかかり、心地よい疲労感と共に深い眠りについた。
——翌朝。
小鳥のさえずりで目を覚ました僕は、胸のあたりにずっしりとした重みを感じた。
いつものようにレンが覆い被さっているのかと思ったが、感触が違う。硬い鱗ではなく、すべすべとした柔らかい肌と、ふんわりとした甘い香りがする。
「……んん。もっと撫でるのじゃ、アレン……」
寝ぼけ眼をこすりながら毛布をめくると、そこには見知らぬ美しい少女がいた。
艶やかな金色の髪、頭に生えた可愛らしい狐耳、そして僕の体に巻きついている九つのモフモフな尻尾。
薄い着物のような布を一枚羽織っただけの無防備な姿で、昨日の大妖・クオンが僕にぴったりと抱きついて、幸せそうに寝息を立てていたのだ。
「えっ……? ク、クオン、さん……?」
僕が焦って声を上げると、横で寝ていたレンが目を覚まし、「僕のアレンになにをしてるんだ!」とばかりに『ギャウッ!』と抗議の声を上げた。
クオンは僕の胸に顔を埋めたまま、「うるさいぞ白き龍よ……妾は昨日から、この心地よい人間の膝の上を棲家と定めたのじゃ……」とむにゃむにゃ呟き、さらに強く僕を抱きしめてくる。
霊峰の朝陽が差し込むテントの中で、僕を挟んで威嚇し合う神話級古龍と大和国の大妖。
誰も知らない東の果ての国で、僕の静かで平穏なモフモフスローライフが騒がしい幕開けを迎えていた。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




