白いトカゲ
第十八層への階段を下りようとした、まさにその時だった。
迷宮の硬い岩壁が唐突に内側から弾け飛び、凄まじい轟音が鍾乳洞に響き渡った。
「ッ、全員構えて! アレンの前に壁を!」
エリアリアの鋭い声が飛ぶと同時、もうもうと舞い上がる粉塵の中から巨大な影が飛び出してきた。
それは、本来この浅い階層には生息していないはずの、四つの赤い目を持つ漆黒の巨獣——深層の階層主クラスの魔物だった。
しかし、様子がおかしい。
巨獣の体にはすでに無数の深い裂傷が刻まれ、黒い血を撒き散らしていた。
何者かとの縄張り争いに敗れたのか、あるいはさらに強大な『何か』から逃げてきたのか。
狂乱状態に陥った手負いの獣は、真っ赤な目で僕たちを捕捉し、絶望的な咆哮と共に襲いかかってきた。
「手負いとはいえ、深層の主クラス……! リティ、撹乱をお願い! セレナ、大魔術の詠唱を!」
「了解! こっちだよ、デカブツ!」
「ミラン、アレンへの物理結界を最優先に。私はその後に続くわ」
一瞬の動揺をすぐに立て直し、彼女たちは流れるような連携で巨獣を迎え撃つ。
手負いで動きが直線的になっていたとはいえ、その一撃は岩盤を容易く粉砕するほどの威力だった。僕はミランとクラリス様に守られながら、後方から【限定空間収納】を操作し、瞬時に各々の得意な間合いへと予備の武器や魔力回復薬を転送していく。
激しい攻防は数分続き——やがて、エリアリアの渾身の一撃が巨獣の急所を深々と貫き、戦いは終わった。
「……ふぅ。まさかこんな階層で深層の魔物と遭遇するなんてね」
「みんな、怪我はない? 結界のおかげでアレンは無傷みたいだけど」
剣の血を払いながら息を吐くエリアリアに、僕はすぐさま清潔なタオルと冷たい水を手渡した。
幸い、誰にも大きな怪我はない。イレギュラーな事態だったが、彼女たちの実力は確かにこの巨獣を上回っていた。
「アレン、ありがとう。……念のため、今日はここまでにしましょうか。本来の階層主ではないにせよ、イレギュラーが起きているのは事実よ」
「ええ、賛成ですわ。これ以上の無理はアレン様の負担になりかねませんし」
リーダーの判断に全員が頷き、僕たちは撤退の準備を始めた。
巨獣の体が光の粒子となって消え、後には希少な魔石といくつかのドロップアイテムが残される。
僕はそれらを【ワン・キューブ】へと手際よく収納していく。
その作業の最中だった。
巨獣が吹き飛ばした岩壁の瓦礫の陰に、微かに動く白いものを見つけた。
(……なんだろう?)
警戒しながら近づくと、そこに倒れていたのは、手のひらに乗るほどの小さな白いトカゲだった。
美しい真珠のような鱗を持っているが、その体は巨獣が暴れた巻き添えを食らったのか、ひどく傷ついている。お腹が微かに上下しているが、今にも命の灯火が消えてしまいそうだった。
迷宮内で見つけた以上、これも魔物の一種かもしれない。
本来なら、冒険者として息の根を止めるか、放置するのが鉄則だ。彼女たちに見つかれば、僕の安全を第一に考えるあまり、迷わず処分されてしまうだろう。
けれど——。
苦しそうに細い息を吐くその小さな命を、どうしても見捨てることはできなかった。
(ごめん、みんな。少しだけ内緒にさせて)
僕は瓦礫の陰でしゃがみ込むふりをしながら、そっとその白いトカゲを両手で包み込んだ。
そして、気取られないように【ワン・キューブ】の中へと収納する。
僕のスキルの内部は、入れた瞬間の『状態(時間)』を完全に固定・保存することができる。これなら、王都の家に帰るまでの間、これ以上傷が悪化して死んでしまうことはないはずだ。
「アレン、回収は終わった? そろそろ地上へ戻りましょう」
「はい、今終わりました!」
振り返り、僕は足早に皆の元へと戻った。
地上へ帰還し、冒険者ギルドでの報告を終えて、王都の一軒家へと戻ってきたのは夕暮れ時だった。
皆が交代でお風呂に入り、リビングでくつろぎ始めたのを見計らって、僕は「少し荷物の整理をしてきます」と自室にこもった。
ドアにしっかりと鍵をかけ、机の上に柔らかい布を敷く。
慎重に【ワン・キューブ】を開き、保存していた白いトカゲをそっと布の上に取り出した。
「よし、収納した時のままだ……」
すぐさま、空間から最高品質の回復薬を取り出す。
傷口を清潔な布で優しく拭い、ポーションを数滴ずつ、ゆっくりと患部に染み込ませていく。
さらに、念のため魔力回復の薬草をすりつぶしたペーストを塗って、細い包帯で丁寧に巻いた。
僕の持つ少しの知識と、最高品質の道具による治療。
あとは、この小さな体の生命力を信じるしかない。
じっと見守ること数十分。
ピクッ、と。
白い尻尾が微かに動き、続いて、閉じていたまぶたがゆっくりと開かれた。
現れたのは、サファイアのように澄んだ、美しい青い瞳。
「あ……よかった。気がついたんだね」
安堵の息をこぼし、僕がそっと指先を差し出すと、白いトカゲは警戒する様子もなく、小さな鼻先で僕の指をすんと嗅いだ。
そして、何かを確かめるように目を細めると、僕の指にすりすりと冷たくて柔らかい頬を擦り付けてきたのだ。
「キュイッ」
小さく、甘えるような鳴き声。
どうやら、完全に懐かれてしまったらしい。
「ふふ、可愛いな。迷宮の魔物じゃなくて、珍しいトカゲだったのかな……。元気になったら、森に帰してあげないとね」
僕は指にすり寄るその小さな頭を、愛おしく撫でた。
純白の美しい鱗。理知的な青い瞳。そして、傷ついた体を瞬く間に修復していく異常なまでの自己治癒力。
その時の僕は、まだ知る由もなかった。
つい出来心で匿い、ポーションで命を繋ぎ止めたこの小さな生き物が——やがて天を覆うほどの翼を持ち、世界の理すらも平伏させる伝説の存在、『神話級古龍』の幼生であるということに。
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