夢魔の罠
ひと通りすったもんだして、僕たちはついに最深部のボス部屋へと足を踏み入れた。
広間の中央に浮遊していたのは、実体を持たない、禍々しい紫色の霧をまとった巨大な脳髄のような魔物——『夢魔の王』だった。
『……ククク。よくぞここまで来た、愚かな人間どもめ』
夢魔の王が、直接脳内に響くようなねっとりとした声で嗤う。
「実体がない精神系の魔物ね。厄介だけど、私の炎で——」
セレナが杖を構えようとした瞬間、夢魔の王の全身から、眩いほどのピンク色の霧が爆発的に噴出した。
『遅いわ! 我が最強の秘術【無間理想郷】! 貴様らが最も望む、最も甘美な「理想の世界」に閉じ込め、その幸福の中で生命力を一滴残らず吸い尽くしてくれるわァァァッ!』
「しまっ……!」
「ア、アレン……!」
ピンクの霧を吸い込んだ瞬間、エリアリアさんたちの瞳から光が消え、4人は糸が切れた操り人形のようにその場にバタッと倒れ込んでしまった。
「皆さん!? しっかりしてください!」
僕が駆け寄ろうとしたが、倒れた彼女たちの口からは、信じられないような『寝言』が漏れ出していた。
「ああっ、アレン……ダメよ、そんなに激しくしたら……ウエディングドレスが破けちゃう……っ」
「えへへ……アレンお兄ちゃん、私のことお嫁さんにしてくれるの……? 嬉しい、いっぱいいっぱいチューしてぇ……」
「んっ……アレン、今日は随分と積極的じゃない……ええ、いいわよ。私のすべてをあなたの好きにして……はぁっ……」
「ああ……私のアレン。私が用意した特注の首輪、とっても似合っていますよ……さあ、一生私に愛されながら這いつくばりなさい……フフッ、アハハハッ!」
どうやら彼女たちは、夢の中で『僕とエッチなことをしたり、結婚したり、監禁したりする』という、それぞれの欲望が限界突破した恐ろしい理想郷に囚われてしまったらしい。
『フハハハハ! 見ろ! 貴様の大切な仲間たちは、己の醜い欲望に囚われ、二度と目覚めることはない!』
夢魔の王が高らかに笑い、そして僕へと視線を向けた。
『さあ、次は貴様の番だ、非力な少年よ! 貴様も己の最も望む快楽の世界に堕ち——』
「……あれ?」
1分経過。
3分経過。
『……ん?』
「…………」
僕はピンク色の霧の中にどっぷり浸かっていたが、全く眠くなる気配がなく、首をかしげてピンピンしていた。
『な、なぜだ!? なぜ貴様は夢の世界に落ちない!? 我が【無間理想郷】は、心の中に少しでも「現状への不満」や「叶えたい強い欲望」があれば絶対に発動するはず! 貴様、もしや理想や欲望の欠片もない空っぽの存在だというのか!?』
夢魔の王が驚愕の声を上げる。
僕は、スッと立ち上がり、足元で変な吐息を漏らして眠る4人を見下ろした。
「……違いますよ。僕にだって、理想の世界はあります」
僕は、かつてボロボロの木箱の裏で餓死しかけていた日のことを思い出す。
誰からも見下され、暴力を振るわれ、ゴミのように捨てられた日々。
そんな僕に、温かい手を差し伸べてくれたのは彼女たちだった。
「僕の理想は……『誰かに必要とされること』です。僕の淹れたお茶を美味しいと言ってくれて、僕が整えた武器で無事に帰ってきてくれて……こんなに騒がしくて、時々首輪をつけられそうになるけれど……」
僕は胸に手を当てて、微笑んだ。
「僕の居場所は、ここにあります。毎日が楽しくて、幸せで……これ以上の理想なんて、どこにもない。だから、『僕の理想は、現実ここにある』んです!」
『なっ……!?』
夢魔の王が、信じられないものを見るように震えた。
満たされきった心。現状への完全なる肯定。精神攻撃を主体とするこの魔物にとって、僕の底なしのお人よしさと純粋な自己肯定感は、最悪の『天敵』だったのだ。
「皆さんが起きたら、お腹を空かせているはずですから。夕食の準備のために、退いてもらいますよ。——【限定空間収納】ッ!!」
『ば、馬鹿なァァァァァァァッ!?』
僕が両手を突き出すと、空間がスッ……と音もなく切り取られた。
実体がなくとも関係ない。「夢魔の王が存在している1立方メートルの空間そのもの」をごっそりと亜空間に収納したのだ。
魔物の核ごと綺麗に切り取られた夢魔の王は、断末魔の叫びと共に霧散し、迷宮の最深部に静寂が戻った。
「……はっ!?」
「こ、ここは……!?」
ボスが消滅したことで術が解け、倒れていた4人が一斉に目を覚ました。
「皆さん! よかった、無事ですね!」
僕がホッと胸を撫で下ろして駆け寄る。
しかし、目を覚ました彼女たちは、どこか焦点の合わない目で自分の手を見つめ、やがて顔を真っ赤にしてワナワナと震え始めた。
「嘘……あれ、夢だったの……? アレンが私のウェディングドレスを脱がそうとして、まさに『これから』っていう、一番いいところだったのに……ッ!!」
エリアリアさんが頭を抱えて絶叫する。
「いやぁぁぁっ! アレンの優しいベッドタイムがぁぁぁっ!」
「私の、私のアレンとの極上の熱い夜が……っ!!」
「アレンが私の靴を舐める寸前だったのにぃぃぃぃっ!!」
全員が、寸止めで終わってしまった「理想の夢」の喪失感に発狂していた。
そして、ギギギ……と錆びた機械のように首を回し、現実に存在する『本物のアレン(僕)』へと、血走った視線を一斉に向けたのだ。
「……ねえ、アレン」
エリアリアさんが、ハァハァと荒い息を吐きながら立ち上がる。
「夢で寸止めされた分……すっごく、すっごく欲求不満なの。ねえ、続き……現実でやってもいいわよね?」
「やるー! アレンお兄ちゃん、今すぐ押し倒してーっ!!」
「ええ、もう我慢できないわ。ここで私の欲望のすべてをぶつけさせてもらうわよ……!」
「さあアレン! 夢の続きです! その首に、私との永遠の契約(物理)を刻み込みましょう!!」
「えっ? ちょっと、皆さん!? 目が、目が狩人の目になってますってば!! 待って、服を脱がないでぇぇぇぇっ!!」
ダンジョンのボスの精神攻撃は、最悪の形で彼女たちの『タガ』を完全に外してしまっていた。
「逃がさないわよアレンーーーッ!!」
「ひぃぃぃぃぃぃっ!!」
実体のない夢魔よりも恐ろしい、理性を失った愛の獣たち。
迷宮の最奥で、ボスを瞬殺した『最強の無自覚サポーター』による、貞操をかけた決死の逃走劇が、虚しくこだましているのだった。
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