第四章「勘違いが拡大する」
神官の名は、リシアといった。
王都の神殿に所属する正式な神官であり、本来ならばこのような辺境の村に長く留まる立場ではないらしい。
「本来は調査のみの予定でした」
村の集会所で、彼女は静かに語る。
簡素な木の机を挟んで、カイトと向かい合っていた。
「ですが、想定以上に状況が悪い」
「そうなんですか」
カイトはパンをかじりながら適当に相槌を打つ。
話の内容よりも、出された食事の方が重要だった。
固めのパンだが、空腹にはありがたい。
「この村一帯には、強い瘴気が広がっています」
リシアは淡々と続ける。
「原因はおそらく、森の奥にある“何か”」
「魔物じゃなくて?」
「ええ。通常の魔物では説明がつかないほど濃い」
カイトはふーん、と曖昧に頷く。
正直なところ、あまり興味はない。
汚れているなら掃除する。
それだけの話だと思っている。
「で、何すればいいんです?」
話をまとめるように尋ねる。
リシアは一瞬だけ言葉を選び、それから答えた。
「まずは、村の中に残っている瘴気の除去を」
「もうだいぶ綺麗になってません?」
カイトは首をかしげる。
実際、彼が歩き回って適当に掃除しただけで、かなり空気は軽くなっていた。
村人たちの表情も、最初に比べれば明るい。
「……はい」
リシアは短く答える。
その声音には、微かな戸惑いが混じっていた。
(異常なほどに)
そう付け加えたい衝動を抑える。
通常、瘴気の浄化には時間がかかる。
専門の術者が複数人で儀式を行い、ようやく薄まる程度。
それが、この青年は――歩き回るだけで消している。
(やはり、ただの浄化ではない)
そう確信していた。
だが、問い詰めても意味はない。
本人が理解していない以上、答えは出ない。
「……それでも、念のためです」
そう言って話を締める。
カイトは深く考えずに頷いた。
「じゃあ、適当に見て回りますね」
席を立つ。
その背中を、リシアはじっと見つめていた。
(この人は――)
言葉にならない。
理解の外にある存在。
だが同時に、奇妙な安心感もあった。
この村にとって、彼は間違いなく“救い”なのだから。
その日の午後。
カイトは本当に“適当に”村を歩き回っていた。
家の壁に手を当てる。
地面を軽く踏む。
気になった場所を、なんとなく触れる。
それだけで。
見えない何かが、音もなく消えていく。
「……軽くなったな」
空気を吸い込み、そう呟く。
最初に感じたあの嫌な重さは、もうほとんど残っていない。
理由は考えない。
結果だけを受け取る。
それがカイトのやり方だった。
一方で。
その様子を遠巻きに見ていた村人たちは、完全に沈黙していた。
誰も、声を出さない。
出せない。
彼が歩くたびに、空気が変わる。
場が清められていく。
それはもはや、掃除などという言葉では片付けられなかった。
「……奇跡だ」
誰かが、小さく呟く。
その言葉は、すぐに周囲へと広がった。
奇跡。
神の御業。
聖者。
様々な言葉が、勝手に重ねられていく。
当の本人は、そんなことなど露ほども知らず。
「この辺もやっとくか」
呑気に次の場所へ向かっている。
その夜。
村の空気は、明らかに変わっていた。
重苦しさは消え、どこか澄んだ静けさが広がっている。
久しぶりに、子どもたちの笑い声も聞こえた。
リシアは一人、外に立って空を見上げていた。
星がよく見える。
ここまで澄んだ夜空は、王都でも滅多にない。
「……信じられない」
思わず呟く。
一日。
たった一日で、この変化。
報告書にどう書くべきか、想像もつかない。
その時、背後から足音がした。
振り返ると、カイトが伸びをしながら歩いてくる。
「終わりました?」
「一応」
気の抜けた返事だった。
リシアはしばらく彼を見つめ、それから静かに言う。
「ありがとうございます」
その言葉に、カイトは少しだけ驚いた顔をする。
「別に大したことしてないですよ」
「それでも、です」
リシアの声は真剣だった。
カイトは少しだけ視線を逸らし、頭をかく。
「……まあ、飯もらってるし」
それが彼なりの照れ隠しだった。
リシアはわずかに微笑む。
だが、その表情はすぐに引き締まった。
「ですが、問題はまだ残っています」
「森のやつですか」
「はい」
短く頷く。
「根本を断たなければ、いずれ再び広がるでしょう」
カイトは少しだけ考える。
面倒そうかどうか。
それが基準。
「……遠いです?」
「歩いて半日ほどです」
「微妙ですね」
率直な感想だった。
リシアは一瞬だけ言葉に詰まる。
だが、すぐに気を取り直す。
「私も同行します」
「ならいいか」
あっさりと了承する。
深い理由はない。
一人で行くよりは楽そう、という程度のものだった。
その軽さに、リシアは内心で息を吐く。
(この人は、本当に……)
だが、それ以上は考えないことにした。
理解しようとすると、思考が追いつかない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
明日。
この村の運命が決まる。
そしてそれは――おそらく、良い方向へと転がる。
根拠はない。
だが、そう思わせるだけの“何か”が、彼にはあった。
当の本人は。
「明日も早いし寝るか」
などと言いながら、さっさと寝床へ向かっている。
その背中を見送りながら。
リシアは小さく息を吐いた。
「……本当に、不思議な人ですね」
夜風が静かに流れる。
星は変わらず、空に瞬いていた。




