第三章「なぜか聖職者扱い」
井戸の周りは、思った以上にひどい状態だった。
石組みの縁には黒ずんだ染みがこびりつき、水面は濁り、どこかぬめりを帯びている。
見ているだけで喉が渇きそうな光景だった。
「……これは使いたくないな」
カイトは率直にそう思う。
村人たちが遠巻きにしている理由も理解できた。
これでは水を汲むどころではない。
「ま、やるか」
気負いなく、井戸へと近づく。
ふと、鼻をつく違和感があった。
腐臭とも違う、もっと奥にまとわりつくような――不快な“何か”。
「……気持ち悪いな」
カイトは眉をひそめる。
だが、それを深く考えることはしない。
汚れているなら、落とせばいい。
それだけの話である。
井戸の縁に手を置き、軽く撫でる。
――その瞬間。
ぬめりが、消えた。
石に染み込んでいた黒ずみも、何の抵抗もなく剥がれ落ちる。
水面が揺れる。
濁りがほどけるように解けていき、底まで見えるほど澄み渡っていく。
同時に、あの嫌な感覚も消えていた。
「お、いい感じ」
カイトは満足そうに頷く。
特別なことをしたつもりはない。
ただ“掃除”をしただけだ。
だが、その変化は明らかに異常だった。
「み、水が……!」
背後で声が上がる。
振り返ると、何人もの村人が集まっていた。
誰もが、目を見開いて井戸を見つめている。
「澄んでる……」
「こんな……こんなことが……」
信じられないものを見るような表情だった。
カイトは軽く首をかしげる。
「使えるようになったなら良かったですね」
その一言が、かえって彼らの動揺を深めた。
ただの掃除で、ここまで変わるはずがない。
誰もがそう思っている。
だが現実として、目の前で起きている。
「……お主、一体何者だ」
最初に出会った老人が、震える声で尋ねた。
「ただの通りすがりですけど」
カイトはあっさり答える。
嘘ではない。
だが、その言葉を信じられる者は一人もいなかった。
「いや……いや……」
老人は首を振る。
「これは……浄化だ。しかも、これほどの規模のものは……」
そこまで言いかけて、言葉を飲み込む。
考えがまとまらない。
だが、一つだけ確信があった。
(この方は……我々とは違う)
その時だった。
村の入口の方から、別の声が聞こえてくる。
「失礼する!」
凛とした声だった。
振り向くと、白い法衣をまとった女性が立っている。
年は二十代半ばほど。
背筋が伸び、目には強い意志が宿っていた。
その姿を見て、村人たちがざわめく。
「神官様だ……!」
どうやら王都から派遣された神官らしい。
女性は周囲を見渡し、そして井戸へと視線を向けた。
その瞬間、彼女の表情が変わる。
「……これは」
静かに歩み寄り、水面を覗き込む。
指先で水をすくい、光にかざす。
濁りは一切ない。
むしろ、神殿で管理されている聖水に匹敵するほどの清浄さだった。
「誰がこれを?」
低く問いかける。
村人たちは一斉に、カイトの方を見た。
「そこの方が……」
老人が震える声で答える。
女性神官の視線が、まっすぐにカイトへ向けられる。
まるで見透かすような、鋭い目だった。
「あなたが?」
「ええ、まあ」
カイトは軽く手を挙げる。
「掃除しただけです」
その言葉を聞いた瞬間。
神官の瞳が、わずかに揺れた。
「……掃除?」
「はい。汚れてたんで」
あまりにも簡単な説明だった。
だが、それをそのまま受け取ることはできない。
彼女は井戸に再び目を向ける。
そして、周囲の空気を探るように目を閉じた。
――感じない。
本来あるはずの“残滓”が、何一つ。
呪いも、瘴気も、魔力の痕跡すらも。
完全な“無”。
それは浄化とは別の、もっと異質な現象だった。
(消えている……?)
背筋に、ぞくりとしたものが走る。
再びカイトを見る。
何の変哲もない青年。
だが、その奥にある何かは――測れない。
「……あなた」
言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開く。
「どのような術を使ったのですか」
「いや、特に何も」
本気でそう思っている声だった。
神官はしばし沈黙する。
そして、結論を出した。
(隠している……のではない)
(本当に、理解していない)
それが、かえって恐ろしい。
だが同時に――希望でもあった。
この村を覆っていた異常は、明らかに普通ではない。
それを、たった一人で消し去った存在。
もし味方であるならば。
「……お願いがあります」
神官は一歩、カイトに近づいた。
その声音は、先ほどまでよりもずっと真剣だった。
「この村の問題、もう少しだけ手を貸していただけませんか」
カイトは少し考える。
面倒かどうか。
それが判断基準だった。
だが。
「飯出るならいいですよ」
あっさりと頷いた。
神官は一瞬だけ呆気にとられ、それから小さく息を吐く。
「……ええ。約束します」
その返答に、カイトは満足そうに頷いた。
こうして。
ただの“掃除の延長”として引き受けた仕事が。
やがて国を揺るがす事態へと繋がっていくことになる。
だが今はまだ。
誰も、その規模を理解していなかった。
――本人を含めて。




