【前編】
チェリストときて、今度はピアニストが出てくる話になります。描写的に至らない部分があるかもしれませんがご容赦くださいませ。
今の気分はリストなのかしら――――
ピアノの調べが響いてくる。
キッチンに立ちながら聞こえてくる調べに耳を傾けつつ、朝ご飯を作っていた。
今いるここと、ピアノのある部屋は仕切りが無く、良く聞こえてくる。
いや、ピアノの音がどこに居ても聞こえるようになっているマンションの作りだった。
それに仕切りのある遠い部屋はもう1台グランドピアノがあるくらい、ピアニストである葉月仕様になっている。
どこでもピアノが弾けるように、聞こえるように――――と。
私はピアノの台数に呆れつつ、その恩恵にあずかっていた。
相川葉月は世界的なピアニストで、主にイタリアで活動をおこなっているのだけれど日本に一時帰国中で私、本間佐名は音楽雑誌の記者をしている。
私たち二人は音楽で繋がっている歳の差の恋人同士だった。
滅多に会えないから、会った時は濃密な時間を過ごすことが多い。
今回の帰国でも同じで、私は葉月の借りたマンションに泊まっている。
葉月は朝あまり食べない、少食のようだ。
なので、サラダと目玉焼きとリンゴジュースを用意する。
食事に関しては特に気にしていないらしく、同じものをローテーションする。
変化が嫌いらしく、毎日同じものを食べて満足していた。
私は完成した料理類を外の景色が見えるテーブルに運ぶ。
ここは高層マンションの最上階、たとえ仮でもこんな豪華な部屋に住んでいる葉月は成功者だ。
羨ましくもあるけれど、彼女の苦悩も見聞きしているので複雑でもあった。
一見、優雅な世界であるように見えるピアニストの世界だけれど角度を変えれば実力世界。
世界にピアノを弾く人間は多い、でもその中でどれだけの人間が職にしているというのか。
僅か数パーセント、プロと呼ばれる人間がしのぎを削っている。
そして、毎年といっていいほど秀才、天才と呼ばれるピアニストが誕生していた。
増えてゆくライバルの中でいかにアイデンティティを保ちつつ、自分のピアノが弾けるかが成功を持続させてゆく鍵だろうと私は思う。
「葉月」
私はピアノを弾いている彼女に近づいて声をかけると、私の声で唐突にピアノの音が止む。
いつもそうだ。
普通なら、演奏を止めさせられたら嫌だろうに。
でも、葉月はピタリと止める。
弾くことにもこだわりはないのか。
「ご飯の用意が出来たわ」
「ありがとう、佐名さん」
鍵盤から手を上げ、私を見上げながら葉月は笑う。
葉月が外で笑うことは滅多に無い、こうして笑ってくれるのは私と居る時だけだった。
外ではクールビューティとして通っている。
外面の切替なんて疲れるだろうにと思いつつ、私だけに見せてくれる笑顔に頬を緩めた。
「佐名さんの料理は、久しぶりだから嬉しい」
「料理なんて凝ったものでもないでしょうに」
椅子から立ち上がった葉月と一緒にテーブルに向かう。
「凝ったものじゃなくても、佐名さんが私のために作ってくれたということに価値があるの。それに、ひとりじゃない食事も嬉しい」
私の腕に自分の腕を絡ませ、身体を寄せて来た。
そう言われて嬉しくないわけがない、私は嬉しさを隠さなかった。
葉月と違って自分の感情を隠すなんてことは不器用な私には出来ない。
「向こうじゃいつも一人なの?」
「ええ、一人。外に食べに行くのも面倒だから簡単なものになってしまって味気なくって」
少しばかり引きこもり体質のある葉月、彼女は社交的なことは苦手だ。
それは付き合ってから知った。
過去、取材をした時には全く分かりもしないこと。
親しくなってやっと分かることもある。
「友人くらい作ったら? 何かあった時に助かるわ」
「要らない、私には佐名さんだけでいい」
その言葉は、私には嬉しい言葉だったけれど複雑だった。
葉月が私一人に取らわれてしまうことが。
彼女の才能は“世界もの”で、私が独り占めしていいものではない。
とはいえ――――強く言ったことが無かった。
私自身、そう思いながら実際そうなったら嫌だという気持ちがあるからだろう。
浅ましいと思いながら私は胸がチクリと痛んだ。
朝は眼下の都会の街を見ながら食事を取る。
葉月と居るといつもの日常が、非日常的に感じてしまう。
食事を取るのにしても、雰囲気からして変わるのだ。
「目玉焼きの、この固さが私好み」
「それくらいはね」
目玉焼きで褒められるのも・・・嬉しくないわけではない、うん。
世間ではクールビューティで通っている葉月が目玉焼きで笑顔を見せる。
彼女の隣の特等席でそれを見られて嬉しく、我知らず頬が緩む。
私は自分用にホットサンドを作って食べていたけれど、珍しく葉月が興味を示した。
「それ、一口欲しい」
用意したものだけでも小食の葉月のお腹を満たす以上だろうに、大丈夫だろうかと心配する。
「大丈夫なの?」
「一口だけよ、さすがにそれくらいは大丈夫」
葉月は笑うと私が持っていた食べかけのホットサンドをぱくりと喰いつく。
行儀が悪いとは言わない、その姿が意外すぎて見惚れてしまったから。
もう5年以上も付き合っているけれど彼女の新しい発見がある。
「美味しい」
「基本的に料理は美味しいわよ」
マズいものは作らない。
意図して出来るものなど無いのだから、失敗することはあっても(苦笑)。
「佐名さん、私も食べたい」
葉月からのリクエストは珍しくはない、自分で料理はしないため私に頼む。
私も彼女のために料理を作ることができて嬉しいし、美味しいと言ってくれる笑顔を見られることも嬉しかった。
「いいわ、あとで作ってあげる」
食べられるものが増えてゆくのはいい、食べたいものがない時、葉月は全く食べないことがある。
食べなくても空腹は気にしないらしく、知らないうちに痩せていることもあったらしい。
私はそれが心配でしかたがない。
自己管理は演奏家自身の仕事だけれど、葉月はピアノを弾く以外無頓着なところがあった。
誰かが側に居て管理してあげたら―――と思っているけれどそれは私ではないような気がする。
「日本に居る間に佐名さんの料理をたくさん食べたい、食溜めするの」
作りに行ってあげられる距離ならいいのだけれど、さすがにイタリアは遠すぎる。
残念ながら音楽雑誌の記者をやっていても日本国内に留まっていた。
私も昔はバイオリンニストを目指していたけれど人より少し上手かっただけで、飛びぬけた才能がなかったため断念し、こうして少しでも好きな音楽にしがみついている。
「食溜めって・・・葉月には似合わない言葉よ」
「見た目で言っているの? 私だってそういう事を言うこともあるわ、佐名さん」
心外だ、と言わんばかりに言い返される。
私の中の相川葉月のイメージが世間の彼女と被っている時もあり、時々感じて口に出してしまうことがあった。
「そうね、そうよね」
私は相手の言葉を即座に否定しないことにしている。
「もう5年以上も付き合っているのにまだそんな風に私のこと見ているなんてちょっとがっかり―――」
「・・・ごめん」
「―――佐名さん、そんな風に取らないで。言ってみただけなんだから」
私の態度から気にしたと思ったのか葉月は少し慌てたように言葉を継ぐ。
「うん、分かってる」
5年以上も付き合っているけれど葉月の全部を知っているわけじゃないのは事実。
色々と新しい彼女を知ることも多くて、記憶にとどめるのが大変だった。
1年を通じて葉月は海外、私は日本国内に居て、いつも一緒に居るわけではない。
「私も佐名さんに甘えてしまって、つい嫌なことを言ってしまう」
サラダを食べずに突つきながら葉月は言う。
私はその手に触れて、それをやめさせた。
食べ物をそういう風に扱うことは行儀上、良くない。
正式の場で彼女が恥ずかしい思いをするのは見たくないから。
葉月はすぐに理解し、フォークを置いた。
「別に構わないわ、それで葉月の平穏が保たれるなら」
「嫌な気分になるのに?」
「葉月が思う程、嫌だとは思っていないから大丈夫。私を傷つけるつもりがないのは分かっているから」
そうとう自分を抑えて我慢しているのだろう、イタリアでは。
彼女を理解している人は私の他にも居るだろうけれど、そういうことを吐き出せるほど心を許している人はいないのかもしれない。
「佐名さんってやっぱり大人」
葉月の身体が私の方に倒れて来て、肩に頭を置かれる。
それくらい隣り合って私たちは座って食事をしていた。
「10つも離れているからね」
「生まれてきて過ごした時間が違う―――のね」
クスクスと葉月が笑うので、私の肩も揺れる。
「―――この差は埋まらないのよ、永遠にね」
私たちの間でギャップは多々ある、途方に暮れる時もあるけど私は受け入れていた。
「多分、10つも離れているから私たち上手くいっているのだと思う。私年上で甘えられる人が好きなの」
「年増が好みなのね」
「佐名さん、自虐的。好きな仕事をしている人って歳を感じさせないのに」
葉月はまたしても笑いながら言う。
「佐名さんは十分、若いから安心して」
「葉月」
笑い過ぎ。
そんなに可笑しかっただろうか。
「自分で自分の魅力を分かってないのよね、佐名さん」
ふと笑うのを止めた葉月が私を見た。
「私の魅力?」
「そう。佐名さんは私がいつでも佐名さんのことを切り捨てられるって思っているみたいだけど、私は私で佐名さんが私以外の誰かを好きになって離れて行くのではないかっていつも危機感を持っているのを知ってる?」
「えっ」
葉月の言葉に私は驚く、彼女がそんなことを考えていたなんて。
「私、いつも佐名さんに振られるんじゃないかって思っているの」
「そんなわけないのに・・・」
「佐名さんがお仕事をしている時の姿ってすごく生き生きしていて素敵だった、私はその姿を見て一目ぼれしてしまったのだけれど他の人もそう思わない可能性がないわけではないでしょ?」
自分ではそう思っていなかったけれど葉月の目にはそう映るのか。
何かこそばゆい。
でも、考えすぎなような気する。
どう考えても若くて美しい葉月より、私の方が恋に縁遠くなっているだろうに。
こんな歳まで独身の、仕事一筋の女に誰が声をかけるというのだろう。
「考えすぎ、私には貴女だけよ」
「―――考えたことも無い?」
「あるわけないわ、これが最後の恋なのかもって思っているのに」
私がそう言うと葉月は私に抱き付いてきた。
「葉月?」
しばらく反応がない。
私も無理には求めなかった、葉月が反応してくれるまでそのままの格好でいた。
ご飯は進まないけど(苦笑)。
そうして待っていたら彼女が言葉を発する。
「嬉しい―――嬉しくて泣きそう」
「朝ご飯食べているから、泣くのはあとにしてくれると助かる」
「・・・もう、佐名さん空気読まなさすぎ」
葉月の表情は泣き笑い顔だった。
滅多に見られるものではないし、それにそれでも彼女の美しさは変わらない。
顔を見ていたら好きだと思う気持ちが唐突に沸き上がって来る、朝ごはんの最中に。
「佐名さん―――」
それは葉月も同じ気持ちだったようで私にキスをしてきた。
キスは軽く唇に触れただけですぐに終わり、私たちの間にため息がこぼれる。
「佐名さん、好き」
キスの後だから通常より興奮していて、アドレナリンも大放出中の私に葉月の言葉はいつもより突き刺ささる。
「私も好きよ」
葉月は私より10つも年下だけれど、演奏家としてはプロ。
私が、才能が無くて諦めたプロの道を彼女は歩む。
音楽に関わるものとして応援したいし、側に居たいと思う。
今の葉月の告白で、私の考えていた最悪のことは起きないと分かった。
「―――佐名さんを日本に置いておくのは、もうイヤ」
葉月が呟く。
「葉月?」
「佐名さんにはいつも私のすぐ傍に居て欲しいの」
クールビューティが崩れ、目の前にありのままの相川葉月が居る。
本来は感情を表に出す子なのに世間が持つ印象のせいで、自分を押し殺してしまう。
「自分でもわがままだと思う、でも―――離れていたらずっと不安ばかり感じて自分の思うような演奏が出来ないの」
「葉月でも?」
「私を・・・なんだと思っていたの? 私はそんな完璧な人間じゃない」
「何気なく振る舞うから、私にもそう見えないの――何かして欲しかったら察してと思うより口に出してくれなきゃ」
私は葉月の頬に掛かる髪の毛を払いながら言った。
いつも食べる時は結んであげるのに今日は結んであげていなかったと気づく。
「佐名さん、言ったら―――付いてきてくれるの?」
随分と重要な話になってしまった。
私も考えなかったことはないとは言わない、いや付き合ってから何度も考えた。
でも、物理的な距離が毎回その思考を停止させてしまう。
葉月にも言われてさえもいないのに勝手に私がそんなことを考えるのは不遜すぎると思っていた。
「そんなに簡単なことじゃないの」
簡単に彼女についてイタリアに行けたらいいのに。
「何が問題?」
真っ直ぐ私を見て葉月は言う。
若いなと思う、これが若さなのかと。
怖いものなし、後先の不透明なことなど考えず私との生活を望むこと。
私は年を取った分、葉月のような瞬発力は無かった。
一歩踏み出す勇気もない。
「私の決心・・・かな」
情けないことに彼女のことは好きだけど自分に自信が持てなかった。
いつからそういう勇気を持てなくなったのだろうか、年を取って安泰を望んで若い頃の冒険心を失ってからか。
「私が佐名さんを支えてあげる、佐名さんは側に居てくれるだけでいい」
葉月はきっぱりと言う、眩しすぎる(苦笑)
「私の方が年上なのに」
「年上とか年下とか関係ない、私には佐名さんが必要なの――――」
「葉月は・・・物好きね」
「佐名さんの魅力は私だけ分かっていればいい、他の誰にも分からない方がいい!」
葉月は大きな声を上げた。
彼女が声を荒げるのを初めて聞き、びっくりした。
「ごめんなさい―――つい」
彼女自身、自分でも驚いているようだった。
大きな声を上げてしまった事に。
・・・それだけ本気なのか。
「クールビューティな葉月も魅力だけど、今みたいな貴女も好きよ」
「佐名さん、話をそらさないで」
「・・・ごめん」
「私、本気で言っているから。佐名さんにイタリアに来て欲しいと思ってる」
真剣な瞳は揺るがない。
演奏も実直だけれど、その強い意思もその整った容貌と相まって葉月の魅力だった。
「理想だけじゃ上手くいかないのよ?」
「やってみないと分からない、たとえダメだったとしても他に考えも浮かぶかもしれない」
あくまでも葉月はその気だ。
外国で挑戦する人たちは肝が据わっている、失敗を恐れない。
日本国内のぬるま湯で過ごしてきた私とは大きな違いだ。
「佐名さんに苦労はさせないから」
・・・結婚する前の、男性の恋人みたいなことを言う葉月。
「その言い方・・・プロポーズみたい」
「――――そう思って貰っても構わない」
きっぱりと言い切る。
「私と一緒にイタリアに来て、佐名さん」
再びの言葉。
視線はずっと私を見たまま、限りなく澄んだ瞳。
こんな真剣な告白で動かなかったら私はどうしようもない大人だろう。
やれば出来るのに、問題は深刻でもないのに尻込みして決断できない。
私より年下の葉月が覚悟を決めているのに私は――――
自嘲気味に私は小さく笑う。
「・・・佐名さん?」
「ご飯、食べちゃいましょう」
「佐名さん!」
葉月は声を上げた、すぐにでも答えが欲しいのだろう。
「慌てないのよ、答えは決めたから」
私は落ち着いて言う。
はっきりと今、決めた。
「―――今、聞きたい」
「ご飯、食べてからじゃダメ?」
「ダメ」
「・・・言ったら聞かないものね、葉月は」
そうだった、ある意味強情で融通も利かない。
自分を通す人間が強いこともある。
もちろん、その反対に柔軟性がある人間も強いことがあった。
「言って」
「行かない―――」
私がそう言うと葉月は顔を背け、椅子から立ち上がった。
でも、私は彼女の腕をつかんだので逃げることはできない。
「離して」
「話はまだよ、最後まで聞いて頂戴」
「行かないのでしょう?! 聞くことも無いわ!」
感情が高ぶり、泣きそうになっているのか声も涙声だった。
「聞いて頂戴、行かないのはすぐには、ってことよ
」
何度か私の腕から逃れようとして引っ張ったけれど逃げられなかった葉月はやっと私の声が耳に届いたらしく抵抗を止めた。
「どう・・・いうこと?」
「すぐにでも行きたいけど、大人には手続きが色々とあるの。あと1年待ってくれると嬉しい」
「えっ」
「行かないとは言ったけど、今じゃないってこと。理解した?」
「ま・・・っ、紛らわしい!」
葉月の顔が赤くなり、私を怒る。
怒られたのも初めて、こんな顔するんだと感動した(笑)
「なによ」
調子が狂ってしまったのかいつもの葉月ではなくなる。
美人で神秘的なピアニストのイメージがガラガラと崩れ落ちる。
でも、私はそんなことでは葉月のことは嫌いにならない。
弱い部分も含めて全部の彼女が好きなのだ。
「ほら、座って」
「う・・・っ」
「ご飯の途中でしょう、行儀が悪いわ」
「こんなときに、ご飯の話?」
「こんな時だからよ、落ち着いて食べてからまた話し合うの」
興奮した葉月を落ち着かせるために椅子に座らせた。
憮然としているけれど私の言ったことは分かったようだ。
「ホントに・・・来てくれるの?」
「葉月に嘘なんて言わないわ、ただ物事には筋道があるのよ。それは分かってくれるわね?」
コクリ、と頷く。
「貴女がこんなに直情型とは思わなかったわ」
「・・・佐名さんのせいよ」
「私の?」
消え入りそうな声で言った葉月の言葉を私は聞き取る。
「私、ずっとクールで通って来たのに・・・自分もそうだと自負していたのに佐名さんと会ってから自分が崩れてきたの」
良いようにだけど、と補足する。
「自分自身を曝け出せるようになって気が楽になったから、佐名さんには感謝してる」
「・・・私もよ、もっとクラシック界を盛り上げなきゃって記事を書くようになったし。でも、イタリアに行ったら会社を辞めないといけないわね」
「それは――――」
「いいの、今後の私は貴女をサポートするわ」
「でも・・・佐名さん、仕事が好きなのに?」
行かないと言った時も、今も表情は変わらない。
私から仕事を取り上げてしまうことに胸を痛めているのか。
「葉月の世話も、クラシック界のためにはなるでしょ? 一石二鳥よ」
葉月は胸を痛めてくれているけれど、私に仕事に対しての未練はもうなかった。
それよりも、この若くて将来有望なピアニストに関われることで今からワクワクしている。
「佐名さん、ごめんなさい」
「謝らないのよ、私は大丈夫。ほら、泣かないの」
私は指で葉月の涙を拭ってやる。
「―――嬉しい・・・ずっと寂しかった」
「私もよ、会いたいときに会えないのはお互いにつらかったわね」
私は葉月の頭を抱えた。
「佐名さん」
「もう少しだけ、こうしてあげるから落ち着いたらご飯を食べて」
優しく言うとぎゅっと私の服を掴む葉月の手に力が込められた。
久しぶりの日本を満喫して葉月はイタリアに帰って行った。
彼女の活動拠点はヨーロッパなのだから仕方がない、色々なものに刺激を受けて今以上にピアノの腕を磨いて欲しい。
私が追いかけてゆくのは1年後だ、それまで色々な煩わしい手続きがある。
目下のところはパスポート更新と、イタリア居住における申請だろう。
『元気?』
私はいつもの彼女からの電話に出る。
葉月は毎日の、国際電話は欠かさない。
出来ない時はメールで連絡して来た。
『元気よ、こっちは大分寒くなって来たの』
『風邪をひかないでね、生姜湯を送るわ』
冷えるのは足先だけではないようで、指先も冷えるらしい。
『ありがとう、助かる。それよりも早く佐名さん来て欲しい』
『まだまだ先よ、早すぎ』
気が早い葉月に私は苦笑した。
『だって毎日寒いんだもの、日本に居た時はベッドで佐名さんのこと抱いていたから暖かかったし』
私は抱き枕か(笑)
『ぬいぐるみも送りましょうか』
『止めて、子供じゃないんだから。でも―――佐名さんの等身の人形だったら送ってくれてもいいわ』
『なに? もしかしてそれを抱いて寝るつもり?』
『Hなことするかも』
声が笑っている。
『・・・からかわないの、まったく』
『え―――少しは本気だったんだけどな』
私たちは少しだけ世間話をすると名残惜しそうに電話を切った。
国際電話は料金がかかる、さすがに長話はできない。
そのかわり、メールかLINEに移動するのが習慣になって、それはイタリアに行くまで続くのだった。
ヨーロッパの昔ながらのコンサートホールは2度目だった。
あのオペラ座、スカラ座のような劇場。
貴賓席、調度品の数々が歴史をまざまざと教えてくれる。
皆、ドレスコードで着飾って演奏を楽しみに席に着いていた。
その熱気に私は圧倒される、日本とは違う雰囲気に。
チケットをくれた本人はこのあと、劇場正面に置いてあるピアノを弾く。
楽しみでしょうがない、こんな歴史あるコンサートホールで葉月の演奏を聞けるなんて。
ブーっとブザーが鳴る。
ざわざわとしたホールが静かになり始め、ここからは咳ひとつも出すわけにはいかなくなる。
劇場によっては咳をしただけで退出させられる厳しい決まりもあるくらい。
客席側のライトが落ち、まずはオーケストラの指揮者にスポットライトが当たった。
指揮者は深くお辞儀をし、万人の拍手を受けた後にオーケストラを紹介する。
オーケストラは演奏前に短い拍手を受け、再びホールは静まり返った。
少しの余韻というか間があって、袖口から人の気配がするとワッと拍手が鳴り始めた。
溢れんばかりの拍手に私は少し驚く。
相川葉月のヨーロッパでの噂は聞いたり調べたりしてきたけれど、これまでとは思わなかったのだ。
彼女の恋人なのにである(笑)
改めて、葉月のピアノ演奏に期待することになった。
チケットをくれたのだから、私がどこに座っているか分かっているだろう。
でも、演奏に集中するためか私の方に視線が向くことはなかった。
その方がいい、ピアニストはピアノの前では全力でピアノに向かうべきなのだから。
今日は青いドレスで髪はUPにしている、結ばないことが多い葉月だけに珍しい。
指揮者がタクトを振るとオーケストラが曲を演奏し始める、それに数分遅れてからピアノの演奏が始まった。
演奏後のホールも、客が吐き出されたホール前も熱気がなかなか冷めなかった。
頭のなかでまだ音楽が鳴っている感じで高揚感も引かない。
迷惑になるかなと思って終了後、ひっそりと帰ろうとしたところ私は係の人に捕まって葉月の楽屋まで案内された。
私の行動など葉月はしっかりと把握しているようだ(笑)。
楽屋に向かったが、取材を受けている最中らしく待たされる。
あれだけの演奏、あれほどのスタンディングオベーションを受けたのだ、取材も人々の称賛も握手も受けるだろう。
何だか私の知らない葉月のようにも見える、少し遠くに彼女を感じた。
40分ほど待たされてやっと葉月は解放され、私と楽屋に二人きりになる。
「佐名さん、ごめんね、待たせちゃって」
いつもの葉月で椅子に座るように促された。
「全然、大丈夫よ。公演、成功みたいでおめでとう」
「今日は佐名さんが来てくれたから、上手く弾けた」
「違うでしょ、貴女の実力よ。凄かった、想像以上に」
今でも鳥肌が立っているのが分かる。
「元記者さんの詳しい感想が聞きたいかも、この後にレストランを予約しているから少し待っていて」
「打ち上げとか無いの?」
「そんなのは日本くらいよ、オケの団員はすぐに帰ったしスポンサーとの食事会も今日は大事な日だからって断ったの」
服を着替え始める葉月。
折角、綺麗だったのに本当に舞台だけの衣装。
「そんなので大丈夫なの?」
「大丈夫、大丈夫。今日以外はちゃんと出ているし断ることも無いからスポンサーとの関係は円満よ」
今しがたコンサートを成功させたとは思えないほどリラックスしている。
やはり葉月は大物だと思う。
それから15分ほど待って葉月と私は劇場裏口から目立たないように出た。
ピアニストはピアノを持ち運ばないから人に紛れて逃げることが出来る、出口には出待ちの人たちや取材の人がいたけれどなんとか見つからずにタクシーに乗った。
運転手に行先を早口で言うと、葉月は後部座席にもたれて息を吐く。
「終わった―――!もう、しばらくは色々なプレッシャーから解放される」
確かにあんな大きな劇場で、有名なオーケストラとの共演、大勢の耳の肥えた観客たちを相手にピアノを弾くのだから大変な重圧がかかっていただろう。
私は葉月ではないので彼女の心は分からない、ただ今となりで吐露されたことで十分伝わって来た。
「お疲れ様、疲れているならこのままアパートメントでもいいのに」
慰労の意味で私は葉月の手を握った。
「お腹が空いたの、緊張でずっとあまり食べられなかったから」
「葉月ってそんなに繊細だった?」
「―――佐名さん、失礼すぎ。ピアニストは繊細な人間がなるのよ」
私が茶化すと少しむくれて言い返しながら、葉月は私の手を握り返してきた。
「そうなのね」
からかってしまったけど、葉月の性格はよく知っている。
本当に演奏の日が決まるとさらに食事を取らなくなる、食べられなくなるのではなく自分をストイックに追い込むのだ。
側で見ている私も心配するくらいに。
もちろん、あまり痩せすぎるのも見た目が良くないので私が食べやすい食事を作って彼女の体調管理を手伝うのだけれども。
「今夜はたくさん食べるんだから」
楽しそうに葉月は言う。
当たり前だけど演奏中の表情とは全く違う、私はどちらの彼女も好きだし尊敬する。
「その後は―――ね」
葉月は頭を私の肩にしなだれかかって来た。
「疲れているんでしょ?」
「あまり分からないかもしれないけど、まだ興奮は冷めないみたい。ずっと持続中」
「・・・だから少しテンション高めなのね」
「私、テンションが高い?」
「確かにいつもより、よく話すわね」
「佐名さんは私のこと、何でも分かってしまうね」
「何でもじゃないわよ、人より少し葉月のことを理解しているだけ」
「嬉しい―――」
「初めて会った時のこと覚えている?佐名さん」
「もちろん」
葉月の才能は幼いころから轟いていた。
私は音楽全般なので、色々な演奏家を見て来たけれど彼女も他聞にもれず幼いころからの天才だった。
わずか13歳で外国の有名なピアノコンクールに優勝し、その後は参加するコンクールではほぼ優勝。滅多に弟子を取らないという今は無き巨匠に弟子入りし、最後の弟子となって伝説となっている。
名前は聞き及んでいたけれど実際に会ったのは彼女が19歳の時、東京で2日間のコンサートを行う時だった。
19歳ですでに、ピアノの腕は誰にも否定できないくらい成熟しており、その後も進化し続けているという異才。
それに加えてヨーロッパ系である祖父方の血が入っているという非日本人的な容貌、佇んでいるだけでその美しさは周りを圧倒している。
――――天は二物を与えたわけだ。
私はカメラマンと一緒に取材を受けてくれるという部屋で、彼女が来るのを待っていた。
そして扉を開けて入ってきた葉月を見てまず思ったのがそれだった。
間近で見た彼女の静かな迫力にカメラマンと共に息を飲む。
「相川さん、お忙しい所申し訳ありません、カメラマンの茅ヶ崎と記者の本間です」
いくら年下でもインタビューするのはこちらで、本当に忙しい中時間を割いてくれた彼女に対して私たちは敬意を払う。
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
随分と落ち着いた声、場慣れしているようだった。
カメラマンはさっそく、準備に入り彼女と私は椅子に座って向かい合う。
「―――じゃあ、さっそくインタビューに入りますね」
身体が熱い。
座った彼女にじっと見られて私はドキドキした。
こんな、年下の子に見られてドキドキするなんて―――
初めての経験だった。
過去、何人もの演奏家のインタビューをした。
男性女性、数多く。
そのいずれもそんな風にはならなかったのに。
そう思いながら、その心情を表に出さないように接しようと努力した。
カメラマンもいつもの私と違って態度におかしいと思ったかもしれない。
目の前の彼女は真面目に、時にはこちらを魅了するような微笑みを浮かべて語ってくれた。
休憩を挟み、時間にして1時間30分程度今の彼女を取材し終えた。
これからも彼女は世界を相手にピアノを弾くのだろう、そんな想像が容易に出来る。
終了後、彼女は用意されたミネラルウォーターをストローで飲む。
「それって送って頂けるんですか?」
「えっ」
「記事が載る雑誌」
「ああ、ええ。もちろん相川さんに送ります」
取材のギャラは振り込みし、雑誌は進呈。
彼女が載る号は販売数が伸びることが予想される、ピアノの腕もさることながらその容姿でファンを獲得していたからその層も買うだろう。
「ありがとう、楽しみしています」
幼いころから世界を相手にしていると年齢より大人びるようで、すでに貫禄がある。
私たちも彼女も退出の為、立ち上がった。
色々、大変なインタビューもあるけれど彼女は比較的スムーズに終わった。
頭のいい子だと思う、若いのに理路整然と話すことができる。
やはり天才は私たちとは違うのだなと私は納得したのだった。
「―――で、あの後に連絡をくれたのよね」
出来た雑誌を送付後、渡した名刺に書かれていた連絡先に葉月から電話が来たのだった。
何か不備でもあったのだろうかと思った私に彼女は、伝えたいことがあるからと。
やはり何か不具合があったのだと焦った私に上司は高級お菓子を持たせると、葉月が指定した日に送り出した。
「別に何かあった訳じゃないのにあの時の佐名さん、凄く焦っていたわね」
「普通、そういう風に思うじゃない―――何かあったんじゃないかって」
「私、怒っていなかったでしょ?」
「まあ、そうだけど・・・」
呼び出されて開口一番、葉月が言った言葉はまさに衝撃的だった。
あの仕事で何か気に障ることをしたのか、と思ってびくびくしていた私に彼女は告白したのだ。
「・・・・はい?」
思考がフリーズしたのは今まで生きてきて初めてだったような気がする。
一瞬、頭の中に空間が出来て何も考えられなくなるのだ。
そして、ハッと我に返って彼女の言葉を反芻し、私は意味を理解しようとした。
「―――もう一度言いますね、私、本間さんのことが好きです」
2度目も私の目を見てはっきりと彼女は言った。
照れもなく、周りを気にする事もなく。
幸い、ここはテラス席で周りには誰も居ない。
「す、好きって・・・インタビューで会っただけなのに? それに私は女性なのよ?」
私の方が突然の告白に焦ってしまう。
「私、女性が好きなんです」
「えっ」
「本間さん―――女性も大丈夫な人でしょう?」
「い、いや・・好きって―――」
そんなこと、初めて言われた。
ずっと付き合って来たのは男性で、女性に恋愛感情を抱いたことはなかった。
どうしてそんなことを言うのか。
それ以前に、私のことが好きだという事の方が私を混乱させていた。
「一目惚れって、本当にあるんですね。びっくりしました」
すごく重要なことを気軽に言う、相川さん。
「一目惚れ?!」
「そうです、私告白される方が多くてそういう気持ちになったことがなくて・・・今回驚きました」
驚いているのはこっちよ・・・と私は思う。
彼女の様子から見ると私をからかっているようではなさそうではある。
「どうして私が大丈夫だと思うの?」
「なんとなく・・・?」
「なんとなくって―――・・・」
なんとなくで、そんなことが分かるのだろうか。
「私、超有望株ですよ」
売り込みが・・・こんな子だったかな(苦笑)。
ガラガラとピアニスト、相川葉月のイメージが目の前で崩れてゆく。
「歳の差は気にしません」
「――――私は気にする」
サクサクと彼女が話す流れに、杭を打ち込んで止める。
「そこですか? じゃあ、女性と付き合うのは問題ないってことですよね?」
「いやいや、女性と付き合うのも、歳の差も問題ありよ」
つい、流されそうになってしまった。
「私のこと、嫌いですか?」
―――嫌いなわけがないじゃない
心の中で思う、彼女を嫌いになる要素などどこにあるというのか。
とはいえ、好きになるという要素もない。
一目惚れというけれど、雑誌の取材をするまで会ったことも無いのに初めて会っただけの人間を好きになるのだろうか。
微かに彼女に対してふと、好ましくは思ったことはあったけれどそれが恋愛感情とは言えない。
「待って、落ち着いて」
「私は落ち着いています、本間さんの方が少し落ち着いた方がいいです」
「・・・・・・・」
10個も年下の子に突然、告白されたら誰だってこうなる。
それに、同じ女性というのだからなおさら。
そして、仕事の対象者。
「・・・混乱してる」
「分かります」
「返事は無理」
「私、待ちます。気は長い方なので」
「いや・・・そう言う事じゃなくてね―――」
彼女には私に断られるという考えがないのか、随分と明るい。
「今月、27日までは日本に居ますのでそれまでに連絡をください」
気は長いと言ったくせに来週末までに返事をくれとは・・・
私に楽譜の付箋をくれる。
「これは?」
「連絡先です、私は名刺を持っていないので私への連絡はこちらに」
ぽんぽんと進めてしまう、私はその流れについて行けない。
「ちょ・・・っと」
今の子は同性と付き合うことについて昔ほど否定的ではないのだろうか。
それにあっさりとカミングアウトしたことも驚きだった。
まあ、もしかしたら彼女が変わっていてあまり気にしないのかもしれない。
彼女は付箋を私に押し付けるとウエイトレスを呼んで、アイスコーヒーを頼んだ。
「もう、あの時は参ったわ―――葉月、全然引かないんだもの」
「それはもう、佐名さんを捕まえるのに必死で」
葉月が笑うと私の肩ごと揺れる。
ふわりと彼女の髪が私の頬に触れた。
「あのねえ、私が同性愛を嫌悪する人だったらどうするつもりだったの?」
「―――それはないかなあ、佐名さん優しい人だもの。会ってすぐに分かった、人を傷つけない人だって」
「ありがと」
「これでも人を見る目はあるの、今付き合っているのだってあの時に佐名さんを選ばなかったらこうしてヨーロッパで一緒にタクシーになんて乗っていないでしょ」
そう言われるとそうだなと思う、結果論かもしれないけれど。
「・・・もしもよ? 私が断ったらどうしていたの?」
もしもを言っても仕方がないのだけれど聞いてみた。
「振り向いてくれるまでアタックしたかな」
「それでもダメだったら?」
「ふふふ、それは無いかな。佐名さん、優しいから最後は付き合ってくれるもの」
腕が絡められ、葉月は顔を上げて私を見た。
「―――・・・」
そう言われて私は言い返せない、葉月の言うことは当たっていそうだったから。
多分、彼女の言う通り何度断っても葉月は私に言い寄り、私は最終的に彼女のことを受け入れてしまうのだろうなと思ってしまう。
「それに―――佐名さん、私を見て瞬間的に私のことを好ましいって思ったでしょ?」
葉月は『好ましい』という言葉を使う、『好き』という言葉は使わずに。
「思っていないって」
「嘘。私、感じたんだから。何でもない風を装っていたけど」
「・・・・・・・」
もう、バレバレなのに認めない私は大人げないのか(苦笑)
「顔を合わせてすぐに私のこと気になったって認めたら?」
「・・・・・・」
私は葉月の言葉から逃げるように窓の外に顔を向ける。
「あ、逃げた。卑怯者――」
「もう少しでレストランに着くわ、いつまでも私にくっついていないのよ」
「佐名さん」
腕を引っ張られ、私は身体を屈まされた。
「ん―――・・・っ」
葉月の唇が私の唇に押し当てられる。
突然のキスに一瞬、何が起こったのか分からなかったけれどすぐに我を取り戻す。
タクシーの中だけれど、葉月を押し返すことはしなかった。
彼女が離れるまでキスに応える。
軽めのキスかと思ったら、随分と熱の入ったキスで内心驚く。
私はタクシーの運転手の方が気になった。
いや、ここはイタリアだからお金さえ払えば何も言わないのかもしれない。
「―――葉月」
唇が離れ、私はため息交じりに吐き出した。
「ごめん、佐名さんにキスしたかったの」
謝るものの、反省している様子はない。
葉月の顔は知られているというのに、全然気にしないんだから・・・
豪胆というか、なんというか。
「キスなんてアパートメントに居たらいつでもできるでしょうに」
「でも、今の感情は今しかないから」
「公衆道徳、というものがあるのよ? 葉月」
イタリアに来て文化圏に感化されてしまったのか、欧州風になってしまっている。
私などはこの年まで、日本に住んでそういうことをきっちりと守るようにと押さえつけられてきたので彼女のような柔軟な切替は出来ない。
「ジェネレーションギャップ」
「それは否定しないわ」
私は苦笑しながら、葉月の身体を押しとどめると窓越しに見えて来たお店に目をやった。
食事をしてアパートメントに返って来た途端、葉月の携帯が鳴った。
まるで待っていたかのように。
扉を開け、少しふらつきながら私に抱き付こうとしていた葉月は発信者を見て態度を変える。
表情で、仕事関係だと察する。
対人関係はフランクだけれど、付き合い方を間違えると色々面倒なことになる。
私は玄関先で話す葉月を置き、お風呂にお湯を張ることにした。
こちらは基本的にシャワーなのだけれど、お湯を張れるバスタブがあるので日本のように湯船に浸かれるのが嬉しい。
やはり疲れている時は入浴剤を入れたお湯につかるのが一番。
蛇口をひねり、お湯を溜める作業をして浴室から出ると電話を終えた葉月とかち合う。
「あら、終わったの?」
「ええ、仕事の話」
「いい事じゃない、このヨーロッパで仕事が途切れないことはいいことよ?」
「次はスペインみたい」
私たちは歩きながらリビングに向かう。
途中、キッチンに向かうと冷蔵庫を開けてミネラルウォーターを取り出した。
「いいわね、情熱の国スペイン」
「再来週からよ? 一息つく暇もないなんて」
「贅沢を言わないの、世界どれだけのピアニストが居ると思っているの? そしてそのうちの何人がコンサートホールで演奏できると?」
「―――はいはい」
少ししつこかったかなと思いつつも、仕事があることを喜ぶべきだという思いはある。
大変なのは分かっているけれど、世に中にはピアノを弾きたくても弾けない人たちも居る。
それが華やかな世界の残酷な裏側―――
グイっ
リビングのソファーに座ろうとした時、葉月は私の腕を引いた。
そのまま腰を抱き寄せる。
「佐名さん」
欲望をたたえた瞳で私を見る。
ここはアパートメントで誰の目も気にしなくていい。
レストランに居る時、食事をしながらも同じような瞳で私を見ていたのは気づいていた。
私に向けられる感情は嫌いじゃない。
葉月のことは好きだし、身体を重ねることもやぶさかではない。
「お風呂に入ってからにしたら?」
「佐名さんと一緒に入りたい」
「・・・甘えないの」
軽くキスされながらそう言われて、身体が熱くなる。
もう何度もこういうやりとりをしているのに私は慣れない。
「私、佐名さんに甘えたい」
愛おしそうに私を抱きしめてくる葉月。
「―――お風呂に入るだけだったらね」
釘を刺す。
入るだけなら、私も頷くだろう。
でも、入るだけで終わらないから彼女と一緒に入ることを敬遠するのだ。
「むう―――佐名さんのケチ」
私に遠巻きに言われて葉月は私を抱きしめながら不満を漏らす。
「ケチで結構、私を抱くのはベッドだけにして頂戴」
とん。
私は身体を離し、片手で葉月の胸を押しやる。
「佐名さん―――」
「そんな顔してもダメよ、それに私もう若くないんだから」
毎日のようにベッドで佐名に求められる、それは予想していなかった。
そんなことも葉月からも想像が付かない。
「好きなのに―――」
「ありがと」
突っ立っている葉月をそのままにしてソファーに座るとミネラルウォーターの蓋を開けた。
私が欲しいと熱心に言っていた葉月は速攻、お風呂に入って来て私にも入るように急かした。
どうしてもすぐに私を抱きたいらしい(苦笑)。
昨晩も私を抱いたのに葉月がこんなに私に執着するとは思わず、分からないものだ。
世の男性の視線を一身に浴びるほどの美人だというのに、男性には興味がないという。
そして女性が恋愛対象だとはいうけれど、彼女の興味はただ一人にしか向けられていない。
告白を受けた時は思いもしなかったことに驚いた。
だって、考えもしないじゃない?
初対面の世界的ピアニストが、いい歳の独身雑誌記者なんか好きになるなんて―――
「ペースを崩された」
「早く」
私のつぶやきは無視される。
葉月はとっくにベッドの上に居て、ついでにいうと何も着ていない。
準備万端ね(苦笑)
「私は逃げないわ、葉月」
「逃げないけど、待てない」
ベッドに近づいた私を葉月は腕を取って、ベッドに引きずり込んだ。
乱暴なんだから―――
「・・・もう、余韻もないの?」
「余韻は省いて、これからね」
葉月はふいに見せる、見惚れるような微笑みを浮かべると私の肌に手と唇を這わせた。
「佐名さん、スペインも同行してくれるでしょ?」
「・・・行くしかないでしょ、私が居ないと葉月はご飯を食べないのだから」
パートナーとして、彼女の日常および体調管理者として私はいつも同行していた。
それはもう当たり前のことで、葉月を知るスタッフも演奏者も私のことを認めてくれている。
彼女に拒否されない限り、私はこれからも彼女の側に居る。
「私、佐名さんの料理しか食べたくない」
そう言って葉月は私を見た。
「喜んでいいのやら・・・複雑な気持ちだわ」
「そこは喜んで欲しいなあ、私には佐名さんだけなんだから」
葉月の言葉に偽りは無い。
本当に私のことが好きで、好きで仕方がないことは毎日の告白で分かり切っている。
毎日ウザいくらいに私を抱きしめ、『好き』と『愛してる』を繰り返す。
私がちょっと男性と話をしようものなら焼きもちを焼き、機嫌を悪くする子供っぽさがあった。
「それは嬉しいけどね」
「ずっと傍に居て」
組まれている指に力が入る。
「ええ、葉月が心変わりするまではね」
「佐名さん、心変わりなんてしないのに・・・私」
美しい――――
私を見る葉月を見てそう思う。
日本人だけど、生粋の日本人には無い美。
僅かに混じった異国の遺伝子が、成せる芸術。
私は空いていた片方の手を伸ばすと、彼女の唇に触れた。
何もひいていないのに赤くみずみずしく、つい手を伸ばしてしまう。
「・・・佐名さん?」
「好きよ」
「えっ」
「私も葉月のことを愛してるわ」
唐突に私に言われて葉月は戸惑った様子を見せたけれど、すぐに笑みを浮かべた。
「嬉しい―――」
顔が近づく。
整った表情が崩れてだらしない。
さっきの表情はどうしたの?と言いたくなったけれど言わないでおく。
葉月のそんな表情を見られるのは私だけなのだ、役得、役得。
「顔、ニヤケ過ぎよ」
「だって嬉しいんだもの―――」
唇が重なり、葉月は今の気持ちを込めてキスをしてきた。
彼女の気持ちが伝わってくる。
胸が締め付けられる、葉月の私への気持ちに―――
今日は特にそれを感じる、なぜだろうか。
「―――佐名さん、好き」
キスの合間に葉月は私に言う、何度も。
「ん」
「好き」
「私も―――よ」
「佐名さん」
「・・・葉月」
私は甘い喘ぎ声を漏らしてしまう。
「佐名さんの声、もっと聞きたい――――」
また、収まった波が戻って来る。
葉月の動きに私は反応してしまう。
言葉でも私を責めて来る、葉月。
どちらも正解、私を追い詰めるには言葉でも、身体でも。
「葉月っ」
「佐名さん、可愛い」
「かわいく・・・なんか―――」
再びのキス。
「んっ」
終わらない―――
葉月は終わらせてくれなかった。
いつもなら、ここで止めてくれるのに続けてまた始まってしまう。
葉月はまだ、コンサートの興奮を引きずっていたようだった。
―――今の気分は、ショパンなのね
私は葉月のピアノを聞きながらコーヒーをドリップしていた。
朝ご飯はしっかり取る派だけど、今朝はそんなに食欲が無い。
昨晩、いつもより激しかったせいだろうか(苦笑)
キッチンから見える窓の外は雨のせいで曇っている、ガラス窓はぐっしょりと濡れていた。
最後の一滴をカップに落とすと私は、二人分のカップを持って移動した。
今住んでいるアパートメントは音楽家が住んでいて、音を出して練習しても怒られない。
周囲の建物の人たちもそれは承知しているという良い環境だった。
それに、音楽家はプロが多く耳障りな演奏をする人は居ない。
今の時間は葉月のピアノだけが聞こえて来るだけ。
グランドピアノが置いてある部屋に向かう、気分が乗っているのか、私が近寄っても葉月は気づかないようだった。
私は椅子に座ってコーヒーを飲みながら特等席で聴かせてもらう、とても贅沢な時間。
部屋の作りも音響が良く響く構造になっており、音楽を職業にしている人にとっては最高の部屋、アパートメントだった。
ピアノの音に身を委ねているとふと音が止まった。
「いい香り」
「コーヒーを作って来たわ」
「ありがとう」
私からカップを受け取る葉月。
「雨がひどくなってきたみたい、今日は1日中雨ね」
「雨―――道理で寒いわけね」
「雨の日にショパン、どういう気分?」
ポン。
私は鍵盤を軽く叩く。
「別に、気分的なもの。佐名さん、リクエストがあるなら弾くけど?」
私はうーんと考える。
音楽雑誌の記者をやっていたけど、これといった曲はすぐには浮かんでこない。
好きな曲はあったと思うのだけれど・・・
「葉月の好きな曲を弾いて頂戴、それかオリジナル曲」
演奏家は即興でも弾けるし、曲をアレンジして弾いたり自分で作ったりできる。
プロとはそういうものだという認識があった。
「―――じゃあ、佐名さんをイメージした曲を弾いてあげる」
「私?」
「そう、ふふふ、ラブレターを書くように佐名さんに曲を作って贈るわ」
そんな事も出来るのだから羨ましい。
「あ、そうだ」
思い出したように葉月は声を上げる。
「佐名さんに別のプレゼントがあるの、ちょっと待っていて」
ピアノの椅子から立ち上がって葉月は部屋から出てゆく。
何かしら?と思っていると手に見慣れた楽器ケースを持ってきた。
「葉月・・・」
「懐かしいでしょ?」
葉月はいたずらそうに笑う。
してやったり、というところだろうか。
「随分と前にやめてしまったわ、ヴァイオリンなんて。それに私は上手くはないわよ?」
「別に趣味で弾くのもいいと思うの、過去の映像見たけど佐名さんってそんなに下手じゃないじゃない」
「何か見たの?」
「今は色々、動画配信で見られるの。高校生の佐名さん、面影あった」
「ちょっと―――そんなのを見たの? 恥ずかしい」
私はガックリくる。
まさか、葉月に自分の高校生の時の姿を見られるとは・・・
追い打ちをかけるように才能がない、ヴァイオリンを弾いている姿を見られるとは。
「はい、ちゃんとしたヴァイオリンだからある程度弾ける腕があれば弾きこなせるわ」
「―――買ったの?」
名が付かなくても高かっただろうに。
「ううん、譲ってもらったの。ヴァイオリンって弾かないとダメになることは知っているでしょ?」
イタリアにあるヴァイオリン博物館は毎日、専門の人が一丁づつ弾いているらしい。
「私はもう、やめたのよ?」
「私、佐名さんと合わせてみたいと思っていたの。折角、元とはいえバイオリニストとピアニストが一緒にいるのに勿体ないわ」
はい、と渡される。
私は受け取ったヴァイオリンケースをじっと見る。
手に取ったのは高3以来、音楽の学校に行くか普通に大学に行くかを迷って結局、私は――――
「佐名さん、趣味でヴァイオリンを弾く人を私はたくさん知っているわ。難しく考えないで、ただ弾くのもいいんじゃないのかしら?」
「ブランクがありすぎるわ」
「堪なんて取りもどせるわ、小さい頃からやっていたら特に。身体が覚えているもの、私は佐名さんのヴァイオリンの音色が聞きたい」
そう言って私にヴァイオリンケースを開けさせる、目を落として本体を見て私はびっくりした。
「これ・・・!」
あり得ない。
思わず、鳥肌が立つ。
「ふふふ、やっぱり分かってしまうなんて佐名さんはヴァイオリンを弾く人ね」
「これ・・・私が持っていいものじゃないわ――」
恐れ多くてケースから出せずにいる。
音楽ショップで売っているものとは全く違う、異質なもの。
少なくとも百年以上経っている年代物のバイオリンだ、しかもストラヴィヴァリとはいかなくても名器と呼ばれるものだろう。
「持ち主には佐名さんの演奏を見せてから納得して譲ってもらったわ」
「葉月・・・私以上に必要な人は世の中に沢山居るのよ?」
「たくさんあるのだから(いい加減な)、一丁くらいいいでしょ。貸し出す本人も認めたのだから」
簡単に言う。
天才は常人には理解しがたいことを時々するので侮れない。
「・・・本当にいいの?」
現役時代、触れたことも無い名器。
とっくにやめた私が持っていて、弾いてもいいものだろうかという思いが頭をぐるぐる回っている。
「ええ、その代わり弾いたら録音して譲ってくれた人に送るけどいい?」
滅多な演奏が出来なくなった(苦笑)
どのくらいで取り戻せるか分からないけれど・・・と、弾く気になっている自分が居る。
「私、佐名さんのヴァイオリン聞きたい」
「耳が肥えている葉月に聞かせるのはちょっと恥ずかしいわ」
「大丈夫、コンクールで優勝するくらいの腕前だもの。たとえそれが過去のものであっても」
「・・・ありがとう」
葉月の励ましは嬉しかった。
今はヴァイオリンを弾くことより、聞くことの方になってしまっているので堪を取り戻すのが大変だと思う。
けれど―――ヴァイオリンを目の前にして私はワクワクしている自分を感じていた。
私は、諦めてしまったヴァイオリンを弾きたかったのだろうか。
「急に弾かなくていいから、ゆっくりと思い出して弾いて行けばいいわ」
「ええ。葉月、本当にありがとう」
また、ヴァイオリンにめぐり合わせてくれた葉月に感謝する。
しかも、こんなにすごいヴァイオリン。
「早く、佐名さんと一緒に演奏したいな」
「―――葉月はせっかちね、もう少し待って。私がちゃんと弾けるまで、今は葉月が私の曲を弾いてくれるんでしょう?」
「あ、そうだった。ごめん」
ヴァイオリンケースを持った私を置き、ピアノに戻ってゆく。
私はその姿を見ている。
初めて会った時、将来今のようになるとは想像もしなかった。
雑誌の取材で、取材対象と記者の関係だったのにそれが私と葉月は付き合い、遠くイタリアに住んでいる。
人の出会いで、何がどうなるかわからないものだと思う。
とっくにやめてしまった、ヴァイオリンを再び弾くことになったことも想定外。
私は泣き笑いの顔になる、嬉しいのと戸惑いとで。
「今から弾くから佐名さん、側でちゃんと聞いていて」
葉月が言う。
「―――今、行くわ」
朝から感動で、胸一杯になりながら私はピアノに近づいて行く。
葉月のピアノは一緒にイタリアに来て欲しいと乞われてからずっと聞いている、それを心の奥で羨ましいと思っていたのかもしれない。
もう、私は演奏家として表舞台に立つことはないけれどピアニストの葉月の側で、趣味としてヴァイオリンを弾くことで彼女と繋がっていることを今よりも実感できるだろう。
今まで以上に充実した毎日になると思うと私は嬉しくて仕方がない。
そして、葉月に感謝してもしきれない私は、彼女の側でずっとサポートし続けようと心に誓ったのだった。