閑話 届かない背中、胸に残る想いー他者視点ー
――助けられた少年の視点――
目を覚ましたとき、最初に感じたのは全身の痛みだった。
「っ……!」
思わず顔をしかめる。腕も足も、少し動かすだけで鈍い痛みが走った。けれど、手足はちゃんと動く。息もできる。どうやら、まだ生きているらしい。
「起きたか」
聞き慣れた声に顔を向けると、父さんが椅子に座っていた。いつもより疲れた顔をしている。
「父さん……」
「まったく。無事だったからよかったものの、一歩間違えればどうなっていたことか」
叱られるのは当然だった。
僕は村長の家の一室で寝かされていた。あのあと、村の自警団の人たちに運び出され、治療を受けたらしい。
ダンジョンで何があったのか、思い出す。
少しなら大丈夫だと思った。
あの二人だって、最初から強かったわけじゃないはずだ。何度もダンジョンに通って、魔物を倒して、少しずつ強くなっていったのだろう。
なら、僕だって。
そう考えて、一人でダンジョンに入った。
でも、実際は違った。
魔物が現れた瞬間、頭の中が真っ白になった。剣を振るうどころか、逃げることさえうまくできなかった。
気づけば転び、足を痛め、二匹の灰牙ネズミに追い詰められていた。
あのときの恐怖を思い出し、身体が震えた。
「……ごめんなさい」
僕が謝ると、父さんはしばらく黙っていた。
「反省しているなら、今はそれでいい。だが、強くなりたいのなら、なおさら無茶はするな。命を失えば、強くなる機会さえなくなる」
「……うん」
返事をしながら、僕は布団を握りしめた。
わかっている。
そんなことは、頭ではわかっているのだ。
それでも、胸の奥には悔しさが残っていた。
僕が何もできなかった場所で、あの二人は魔物と戦っていた。
そして、僕を助けてくれた。
その事実が、どうしようもなく情けなかった。
◇
数日後、ようやく自分の足で歩けるようになった。
まだ無理はできないが、家の中で寝ているだけの生活にも飽きてきた。父さんに許可をもらい、昼間、村の広場まで出てみることにした。
そこで、二人を見かけた。
「だから、最初に逃げ道を確認しておくのが大事なんだよ。戦うことばかり考えてると、いざってときに動けなくなるから」
「わかってるって。あたしだって、あのときはちゃんと周りを見てたよ」
「見てたのと、いつでも逃げられる位置にいるのは別の話だろ?」
「む……それは、そうだけど」
少年が苦笑し、少女が少し不満そうに頬を膨らませる。
二人は村の子供たちに囲まれていた。
どうやら、ダンジョンに入る前に気をつけることを教えているらしい。村長から頼まれたのだろう。
その様子を見て、僕は足を止めた。
彼は、落ち着いていた。
僕が恐怖で何もできなかったときも、彼は剣を構え、魔物の動きを見ていた。彼女と声を掛け合い、互いに隙を補いながら戦っていた。
あのときは、ただ助けられたことがありがたかった。
でも、少し時間が経った今は違う。
彼が彼女の隣に立っていることが、妙に気になった。
「一人で奥まで行こうとしないこと。怪我をしたら無理に進まず、すぐに戻ること。それから、持ち物の確認も忘れないことだな」
「そうそう。薬草や包帯があっても、使い切ったら終わりなんだからね。あたしたちだって、危ないと思ったら引き返すよ」
彼女は明るく笑った。
その笑顔を見て、胸がきゅっと締めつけられる。
僕は、彼女のことが好きだった。
いつからだったのかは、もう覚えていない。
村の中を元気に走り回っていた頃からかもしれない。剣を振るう姿を見かけるようになってからかもしれない。
ただ、彼女が笑っていると、つい目で追ってしまう。
話しかけられると嬉しいし、他の男の子と楽しそうに話していると、少しだけ落ち着かなくなる。
そんな自分の気持ちを、ずっと胸の奥にしまっていた。
いつか、もっと強くなったら。
いつか、自分に自信が持てるようになったら。
そのときは、彼女に気持ちを伝えよう。
そう思っていた。
けれど――。
「次の探索では、もう少し先の通路も見てみようと思うんだ。もちろん、無理はしない範囲でね」
「いいね! 前より強くなったし、新しい魔物にも会えるかもしれない!」
彼女は目を輝かせていた。
その隣で、彼も楽しそうに笑っている。
二人は、同じものを見ていた。
これから先の冒険を。
僕が怖くて逃げ出した場所を、二人は楽しみにしている。
その差は、思っていたよりずっと大きかった。
◇
羨ましかった。
彼の強さが。
彼女の隣に立てることが。
二人が同じ目標を持ち、同じ経験を積み重ねていることが。
そして、そんな二人の間に、僕が入り込める気がしなかった。
彼は、彼女のことをよく見ていた。
彼女が話しているときはきちんと耳を傾け、危ないことをしようとすれば注意する。けれど、ただ頭ごなしに止めるわけではない。彼女がやりたいことを理解したうえで、どうすれば安全に実現できるかを一緒に考えている。
彼女もまた、彼の言葉を素直に聞いていた。
もちろん、反論することもある。言い合いになることだってある。
それでも、二人は自然に隣にいた。
僕が彼女と話すときは、何を話せばいいのか考えるだけで精一杯なのに。
彼は、特別なことをしなくても彼女の隣にいられる。
それが、たまらなく悔しかった。
彼に助けられたことには、感謝している。
命の恩人だ。恨む理由なんてない。
むしろ、彼がいてくれたから僕は今ここにいる。
それなのに。
彼女が彼に向かって笑うたび、胸の奥に黒いものが湧き上がる。
どうして、僕じゃないんだろう。
どうして、彼なんだろう。
そんな考えが浮かぶたび、僕は自分自身が嫌になった。
助けてもらった相手に嫉妬するなんて。
彼は何も悪くない。彼女だって、僕に何かを約束したわけではない。
ただ、二人が一緒に努力してきただけだ。
僕が何もしていなかった間に。
「……何やってるんだ、僕は」
小さく呟いて、視線を落とす。
握りしめた手は、まだ少し震えていた。
魔物を前にしたときの恐怖が、完全に消えたわけではない。
今すぐダンジョンに戻れと言われても、きっと足がすくむだろう。
それなのに、彼女の隣に立ちたいと思っている。
彼と同じ場所に立ちたいと願っている。
何もできなかった自分を変えたい。
でも、何から始めればいいのかさえ、今の僕にはわからなかった。
◇
「おや、もう外を歩いて大丈夫なのかい?」
声をかけられて振り向くと、村長が立っていた。
「はい。まだ少し痛みますけど、だいぶよくなりました」
「そうか。無事に回復してくれて何よりだ」
村長は安心したように微笑んだ。
「今回のことは、君にとっても苦い経験になっただろう。だが、これで終わりにする必要はない。身体が治ってから、できることを少しずつ始めればいい」
「……僕にも、強くなれますか?」
気づけば、そんな言葉が口から出ていた。
村長はすぐには答えなかった。
僕を励ますために、簡単に大丈夫だと言うこともできただろう。
けれど、村長はそうしなかった。
「なれるかどうかは、これからの君次第だ。誰にでも得意不得意はある。あの二人と同じように戦えるとは限らない。だが、今の君にできることは、まだいくらでもある」
「……はい」
「まずは、身体を治すこと。それから、村の大人たちに教わるといい。剣の扱いも、魔物についても、学べることは多い。焦る必要はないよ」
その言葉は、優しかった。
だからこそ、少しだけ苦しかった。
焦っているのは、僕自身だった。
彼女に追いつきたい。
彼に負けたくない。
できることなら、いつか彼女の隣に立ちたい。
でも、その願いを叶えるために、また無茶をするわけにはいかない。
僕は一度、命を落としかけたのだ。
その恐怖を忘れたふりをして、今度こそ大丈夫だと自分に言い聞かせることはできなかった。
「……少し、考えてみます」
「ああ。それでいい」
村長はそれ以上、何も言わなかった。
◇
帰り道、僕はもう一度だけ広場を振り返った。
二人はまだ、子供たちに囲まれていた。
彼が何かを説明すると、彼女が実演して見せる。子供たちが歓声を上げ、彼女が得意そうに胸を張る。彼はそんな彼女を見て、呆れたように笑っていた。
見慣れた光景のはずなのに、今日はひどく遠く感じた。
僕も、いつかあんなふうになれるだろうか。
彼女の隣で、自然に笑えるようになるだろうか。
答えは出なかった。
ただ、一つだけわかったことがある。
今の僕には、彼女の隣に立つ資格があるとは思えなかった。
それは、彼女が僕を拒んだからではない。
彼女は、僕が倒れていたとき、心から心配してくれた。助け出されたあとも、優しく声をかけてくれた。
その優しさが嬉しかったからこそ、勘違いしたくなかった。
彼女は誰にでも優しい。
僕が特別だからではない。
そして、彼女が冒険者を目指す理由も、彼と一緒にいる理由も、僕には変えられない。
僕が勝手に好きになっただけなのだ。
胸の奥が痛んだ。
好きな気持ちまで、簡単に消せるわけではない。
羨ましいと思う気持ちも、嫉妬してしまう心も、きっとすぐにはなくならないだろう。
それでも。
「……もう、無茶はしない」
僕は小さく呟いた。
彼女に追いつくためだけに、命を危険にさらすのはやめよう。
彼に勝つためだけに、自分を見失うのもやめよう。
今の僕に必要なのは、二人を追いかけることではなく、自分にできることを見つけることなのかもしれない。
そう考えたら、ほんの少しだけ、息がしやすくなった。
彼女への想いを諦められたわけではない。
明日になれば、また彼女の笑顔を見て、胸が痛むかもしれない。
彼のことを羨ましいと思うかもしれない。
それでも、今は一度、立ち止まろう。
いつかまた、胸を張って彼女と話せる日が来るように。
そのとき、まだ彼女を好きだったなら――その気持ちは、そのときに考えればいい。
僕は前を向いて、ゆっくりと歩き出した。
背中の向こうでは、二人の笑い声がまだ聞こえていた。
その声を振り返ることは、しなかった。




