一か月早い線
砦の門で、荷はもう一度半分になった。
道倉から上げた車は軽くしたはずだった。蹄鉄釘の小箱一つ/乾いた麻縄二束/灯油の小壺一つ/戻り分を残した食料袋。それでも門の内側に入る前に、砦兵が荷台へ手をかけた。
「灯油はここで止めます」
「門内へ入れないのか」
エルクの声に、兵が首を振る。
「入れる手が足りません。壺を割ると今夜の灯りが減ります。ここで受け、門横の小棚に置きます」
門横の小棚は、棚と呼ぶには浅かった。板二枚を壁に渡し、縄で押さえただけの場所だ。雨は防げる。風は防げない。
ガレスが棚の下を見た。
「水が回る」「布を敷きます」「布が濡れたら壺も滑る」
兵は言い返さなかった。棚の下には黒い水跡が残っている。
門内を見る。砦は小さい。石壁は低くないが広くもない。中央の広場には矢束を干す台が二つある。片方には古い縄。もう片方は空いている。空いているのではなく、置く手が回っていない。
壁上には四人いるはずだった。見えたのは三人。
「一人は」
「北の段へ回しています」
案内役の兵が答えた。
「荷受けの一人では」
「同じ者です」
紙の上で見た重なりが壁の上にいた。荷を受ける手/見張る目/夜に起きている体。同じ一人を三つの場所が待っている。
「小砦の名はどこに」
案内役は一瞬だけ迷い、砦内の板壁へ向かった。
板壁には古い地図が打ちつけてあった。雨で端が膨らみ、北側だけが何度も指でなぞられて薄くなっている。小さな木片が三つ、細い釘で留められていた。
西尾根見張り。古炭道柵。北谷口小砦。
三つとも守る場所として残っている。だがどの木片にも新しい紐がかかっていない。紐は人を置く印だ。
「空けているのか」
エルクが低く聞いた。「空けてはいません」
案内役の返事は早かった。
「見回りでつないでいます」
「常駐ではない」「はい」
その違いは大きい。常にいる者と、来るはずの者は違う。火事を見つける役と、焼けたあとに数える役ほど違う。
砦の奥で乾いた咳がした。負傷兵ではない。眠っていない者の咳だった。
「夜番は何人で回していますか」
「二人一組を三回。今は一組だけ一人です」
「一人の夜番は何日目」
「五日目です」
エルクの顔が変わった。
「五日、一人で壁を見ているのか」
「壁全部ではありません。北の段だけです」
「同じだ」
声が荒くなりかけたところで、ガレスが矢束台に手を置いた。
「縄が古い」
話が切れた。エルクも兵も矢束台を見る。
古い縄は乾いている。乾いているが白く毛羽立っていた。引けばすぐ切れるほどではない。だが矢束を強く縛れば途中で裂ける。
「乾いていればいい、ではありません」
北道確認の紙を開いた。
「乾いていて使える縄。乾いているが使えない縄。濡れていて干せば戻る縄。三つに分けてください」
案内役の兵が頷き、すぐ動こうとした。
「あなたは壁へ」
足が止まる。
「ここで分ける手は道倉から来た者で足ります。壁の一人を減らさないでください」
兵の喉が動いた。礼は言わない。だが背を向ける速さが変わった。
砦の記録棚は奥の狭い部屋にあった。棚と言っても積まれた板箱に紙束を差し込んだだけだ。日付順ではない。濡れた紙/乾いた紙/急ぎの紙/戻ってきた紙が紐で分けられている。
一番上に北谷筋の控えがあった。魔物三群。南斜面へ移る。被害なし。その書き方は、領へ届いた定型報告と同じだ。ただ枚数が違った。
一枚目は二日早い。次は七日早い。その次は十八日早い。最新の紙には、薄い字でこうあった。
例年より一か月早い。
エルクが紙へ手を伸ばしかけ、止めた。
「一か月」「はい」
案内役とは別の記録係が答えた。目の下が青い。眠っていない者の顔だった。
「例年なら初雪の前後に南斜面へ下ります。今年は初霜のあとすぐです」
「被害は」
「まだありません」
まだ。
その一語だけが紙より先に砦内へ広がっていた。
「数は増えていますか」
「群れの数は三のままです」
「大きさは」
「遠目では同じに見えます」
「近づいた日は」
記録係が別の紙を探した。すぐには出ない。紐を二つ外し、湿った端を押さえ、ようやく一枚を出す。
「北谷筋の外れまで四日前です」
「去年は」
「同じ場所は雪のあとです」
紙の端に去年の印があった。雪のあと。今季は雪の前。差はもう日数ではなく季節のずれだった。
余計な推測はどの紙にもない。それでよかった。見えていないことを紙に入れると、次の判断が濁る。
「控えを変えます」
新しい紙を出した。群れの数/初見日/南斜面へ移った日/北谷筋外れへ来た日/前年との差/被害/砦までの距離。
「備考の欄は」
記録係が聞いた。
「作りません」
エルクがこちらを見る。
「何も書かないのか」
「探します。けれど見つける前に書く欄はいりません」
紙に空欄があれば人は埋めたくなる。埋めるための言葉は、事実より先に来る。今ほしいのは言葉ではない。日付と距離だ。
ガレスが古い控えの端を押さえた。
「去年の紙も濡れているな」
「北の段で写したあと、戻りが遅れました」
「なら写しを一枚増やせ。濡れても日付だけは残せ」
記録係が頷く。疲れた顔のまま筆を取った。
外で鐘が一度鳴った。敵襲の鐘ではない。門の開閉を知らせる短い音だ。道倉からの軽い車が、砦の内側へ入ったのだろう。
「今夜、北の段を二人に戻せますか」
「荷受けを減らせば」
記録係の声は小さい。
「荷受けを減らすと、明日の荷が止まります」
「なら夜番が一人です」
同じところへ戻る。荷を入れると壁が薄くなる。壁を厚くすると荷が止まる。荷が止まると明日の壁が薄くなる。
板壁の地図を見る。三つの木片が紐なしで並んでいる。西尾根見張り/古炭道柵/北谷口小砦。守る場所として残され、置く人だけが足りない場所。
「今夜は北の段を二人に戻してください」
エルクが口を開きかけた。
「荷受けは道倉側で明朝に回します。今日は、砦内へ入れる荷を増やさない」
「足りないのに入れないのか」
「入れても、受ける手が倒れます」
鐘がもう一度鳴った。今度は門ではない。北側の見張り台から短く二つ。
記録係の筆が止まる。案内役の兵が扉の外から顔を出した。
「北谷筋です。煙はありません。ただ、群れが南斜面の下に見えたと」
エルクが先に動いた。
新しい控えの最後に、まだ乾いていない文字を書く。
一か月早い。距離、未確認。見たものだけ。




